「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」映画レビュー(ネタバレ)こうやってしか生きられねーんだよ!!な、人間同士の戦い

映画
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男女の平等、フェミニズム、マッチョイズム、そんな言葉が最近はよく聞かれるようになった。

そうやっていろんな価値観を認めるのは素晴らしいと思う反面、少しの生きづらさを感じるようになったのは自分だけだろうか。
多様な価値観があるのはもちろん良い事だとも思うんだけれど、それらがやたらに押しつげがましくも感じている。

そもそも誰だって男らしさ、女らしさ、の中にある無数のグラデーションの中に自分がいる。そこに男らしくもない、女らしくもない、自分らしさがあるはずだ。

じゃあその自分らしさってのは何なんだ、ってのが今回書く映画「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を見て、とてもおぼろげながらだが見えた気がした。

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」
監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス
脚本:サイモン・ボーファイ
制作:クリスチャン・コルソン、ダニー・ボイル、ロバート・グラフ
出演:エマ・ストーン、スティーブ・カレル、アンドレア・ライズブロー

あらすじ
1973年、男女平等を訴える女子テニスチャンピオンのビリー・ジーン・キングと、男性優位主義を貫く元男子テニスチャンピオンのボビー・リッグスによる実際に行われた「バトル・オブ・ザ・セクシーズ(男女対抗のテニス試合)」と、その舞台裏が描かれる。
男女の威信をかけた戦いと、この時代から今にも続く男女の平等をテーマに、しかし決してそこだけにはとどまらない様々な価値観が交錯し合う。

性差別の戦いを描いた映画ではない
こうやってしか生きられない人間!!を描いた映画

この映画をみる前は、現代社会の風潮をかなり取り入れた、言ってみればフェミニズム感満載な映画だと思っていたし、世間的な評価もおおむねそんなところに終始している印象を受けていた。

しかし蓋を開けてみると全くそんなことはない。
まず始めに断言しておきたいのは、この映画は性差別を描き、それってマジ最低!ビリージーンは女性差別と勇敢に戦った勇気ある人だよ!なんて事を描いた映画ではない、という事。

その証拠の一つとして、男性至上主義を声高に叫ぶ試合の相手役のボビー・リッグス(スティーブ・カレル)という人物を悲哀に満ちた、とても魅力ある人間として描いている部分が挙げられる。

たしかに劇中、つまりは実際に(基本的にはノンフィクションの話なので)ヘラヘラ顔で彼が声高に叫ぶ男性至上主義のメッセージや言動は、男の自分が見てもとても我慢ができないものばかりだ。

ボビー・リッグスという昔のテニスプレーヤーの事を私はこの映画を見るまで全く知らなかった。ほぼ生きている時代が違う人間だから正確なことはほとんどわからない。(どうやら躁病を抱えていたらしい。)
だから男性至上主義の度合いに関してもどんな程度だったのかは分からない。

けれど少なくともこの映画の中で描かれる彼は自分が男性至上主義だという事をおおっぴらに、これでもかと叫び続ける。
「私は女が好きだ、でもそれはベッドとキッチンにいる時だけだ。」
「女をテニスコートに入れるのは良い。そうじゃなきゃ球拾いがいない。」

執拗なまでにビリー・ジーンを、そして世の女性全てを挑発しまくる。

しかしその姿にはなぜか憎しみを感じない。これはなかなかに不思議だ。

なぜだろうか

めっちゃゲスなこと言うのになんだかかっこよく見える人って周りにいないだろうか、そんな感じなのだ。
きっとそれは彼のおおっぴらに叫ぶその姿に、自信や、不思議な気高さ、そしてある種の優しさを感じるからかもしれない。つまりなんというかそのやり方が極端すぎてちょっとかっこよさすら感じてしまうのだ。

自信は、彼が試合に絶対に負けない自信だ。そこに声の大きさがある。
気高さは、この時代既に叫ばれていたウーマンリブ(女性解放運動)という風潮に対しても、臆する事なく自分の正しいと思う考えを叫び続ける気高さだ。内容の善悪に関係なく、そこにたくさんの人が惹きつけられる。
そして優しさは、面白いほどに過剰な挑発が、女性に対して「ここまで言われて悔しくないのか」「ちゃんとやれるってところを見せてみろよ」と鼓舞しているようにも見えるところから感じられる。そしてビリー・ジーンはこれに鼓舞された。

彼はそうやって臆さずに、挑発的に、誰かに嫌われながらも気高くいることで生きてきた、人々の目を惹きつけてきた。
嫌われながらも、負けたらどん底にいくリスクを抱えながらも生きてきた。
そう、彼はそうやってしか生きられない人間だったのだ。
そうやって自らを追い込むことで、自分を鼓舞し、結果を出してきた人間なのだ。

事実、彼は偉大なテニスプレーヤでありながらも、重度のギャンブル(多分アドレナリンといっても良いだろう)依存症だった。何かをベット(賭け)しないと力が発揮できないのだ。

一見とてつもなく下劣なこのボビー・リッグスという男だが
妻への思いや、時折かいまみえる子供のような一面で、下劣でありながら実はとても人間味に溢れた、悲哀と憎めなさを併せ持っている。
つまりは最低なんだけど最高なキャラクターなのだ。

このキャラクターに仕立て上げた脚本は本当に素晴らしい。
そして何よりそのキャラクター性を、演技で完璧に表現したスティーブ・カレルはこの映画においてパーフェクトだったと思う。
顔も似てるし、あの余裕の中にほんの少しだけ見える不安はなかなか表現できないと思う。

対するビリー・ジーン(エマ・ストーン)はウーマンリブの急先鋒という形で完全にボビー・リッグスと対をなす人物として描かれている。

しかしビリー・ジーンの描き方がまた秀逸で、ここを見るだけでこの映画が性差別の戦いだけを描いた映画じゃないということが分かる。

映画の中でビリー・ジーンは決して声高に女性差別に対する反発を叫んだりしない。
彼女が世に叫びたいのは単純に、男性の方が、あらゆる面で上であるいう意見に対して、
どっちが上とか、そんなくだらない話じゃない。そのくだらない常識ってもの自体に納得がいかない。
という事だ。要するに価値観の多様性を叫んでいる。

そして彼女はウーマンリブの旗手でありながらもレズビアンであった。
自分を信じてきた、そして他人からも信じられてきた彼女が、その信念みたいなものをある種曲げるような形で自分の性を認めていく。迷いながらも受け止めるしかない自分自身を受け止めて、自分が向かいたい方向に向かっていく。
彼女もボビー・リッグスと同じように、人間味に溢れたキャラクターとして描かれている。
彼女もまたこうやってしか生きられない人間だった。

毅然として正しくないと思うものにNO!!と叫びながらも、自分の内面の変化に揺れるキャラクターに仕立てた脚本、そして演じたエマ・ストーンもこれまたパーフェクトだったと思う。

こうやってしか生きられねーんだよ!!な人間同士の戦い

かくしてそんなビリー・ジーンとボビー・リッグスが合間見える世紀の一戦「バトル・オブ・ザ・セクシーズ(男女対抗のテニス試合」が開催される。

試合前の舌戦から始まり、両者の試合当日までの密着取材などで全米の注目度は相当に高かった。

これはもちろん男女間の性の威信を懸けた戦いという面白さもあったが、本質的にはビリー・ジーンという人間の魅力と、ボビー・リッグスという人間の魅力が真っ向からぶつかり合うという面白さにある。

つまりは「こうやってしか生きられない、愚直な人間同士の戦い」なのである。
その愚直さのコントラストが実に面白い。

トリッキーに振る舞い、全てを煽り、時に味方までも敵に回し、敵までを味方にする男ボビー・リッグス。彼はそうやってドーピングのように自分を鼓舞する。
愚直なまでに常識と戦い、正義を貫く女ビリー・ジーン。しかし彼女の心はレズビアンであるという背徳感にも犯されている。

両者とも気丈に振る舞いながらも心には大きな弱さを抱えている。
そんな人間味のある二人が衝突するのだ。

実際の試合はあくまでみんな客観的に男女間の性の戦いと見ていただろう。
しかしこの映画では二人の背景を描く事で単なる男女間の性の戦いではなく、己と己の戦いになっている部分が、この映画の魅力の最たる部分だ。
そこに誰しも自分の強さや弱さを重ねてしまうのではないだろうか。

どんな戦いの裏にも、きっとこうした誰も知らない舞台裏、もっとパーソナルな人間同士の戦いがあるはずだ。
ことこの映画に関してはこの戦いまでの話運びが完璧なので、その構図が分かりやすく浮かび上がってくる。

自分らしさとは

この映画を見て思ったのは、冒頭に書いた
「自分らしさってのはなんだ」
ということだ。

フェミニズムやLGBTQという言葉が多く聞かれるようになったここ最近で、最終的にはだいたい「自分らしく生きよう」なんて漠然とした答えに行き着いているように思える。

最終的に一番むずいよという着地点だ。

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」はまさしく自分らしく生きる女と男の戦いだ。
「らしさ」と「らしさ」の戦いの物語である。もう「バトル・オブ・ザ・ラシサーズ」なのである。
両者のらしさがイキイキと描かれることで両者の戦いの行く末から目が離せなくなる。
そして決して勝負がついた後も男と女、どちらが勝ったかという短絡的な結末にも落ち着かない。その勝敗にそもそも意味なんてない。

この二人の「らしさ」とは結局のところ
どうしても変われない部分
なのではないだろうかと思う。

他人からなんと言われようが、世間の常識がどうであろうが、変わろうと意識しようがが、どうしても変われない部分というのが人間にはあると思う。

でも、このどうしても変われない部分がその人らしさなのだ。
そしてそのらしさ同士がぶつかる事で、時には和解が生まれたり、時には新しい価値観が生まれたりする。そこが最高にエキサイティングで、そこに作り物じゃない痺れるドラマが生まれる

変われないものを無理に変えなくても良い。なんならそこを思い切りむき出しにして、衝突すればいい。
自分らしくいるとうのは、もしかしたらそんな事なんじゃないかなとこの映画を見て思った。

この映画のなかで、ギャンブル依存症のボビー・リッグスが奥さんに言われた一言が印象的だった。

「頼りがいがある、しっかりした男が私には必要なの。」

ボビー・リッグスは悲しみと優しさが混ざった表情でこの言葉を受け止める。
きっと彼は自分ではどう頑張っても、そんな風にはなれない、変われない
そう思ったのではないだろうか。
ここの部分のスティーブ・カレルの演技は本当に悲哀に満ちていて、且つセクシーなとてもいい演技だ。

でもボビーと奥さんは試合後に最終的には復縁する。
自分らしく大博打を辞めずに、ヒール(悪役)になりながらも観客を魅了した彼のやりかたは
まさしく「頼りがいのある、しっかりした男」とは正反対の「ヘラヘラした、信用できない男」を演じきる、実に彼らしいやりかただった。

そんな「らしさ」爆発の彼の生き方は最低だけどもどこか憧れてしまう魅力的な生き方だ。

もちろん、男女が平等であるのはもはや当たり前だ。そこを阻害するものはどんなものでも断罪されてしかるべきだと思う。
そしてこの映画で教条的に描かれるビリー・ジーンのテニス界の常識を覆した功績は本当に素晴らしい事だ。ラストの試合シーンは結果がわかっていても涙なしには見られない。

それでも私は
「ベッドかキッチンにいる時だけ」の女が好きでもいいと思うし
「しっかりとした、頼りがいのある」男が好きでもいいと思う。

ある意味これはとても差別的な考えだとも思うが、
それでもむしろその考えを声高に叫んで欲しい、そしてぶつけあいたい、バトルしたい。

誰かとの違いとか、自分がどう頑張っても変われない部分とか、そうやってしか生きられない生き方を見たいし、自分もそう生きたいたと思う。
それはすごく惨めで恥ずかしいかもしれないけど、そこにきっと魅力や、ある種の色気が醸されるんではないかと思うのだ。
そしてそんな部分が誰かとぶつかることで磨かれていく。
変えられない部分を変えようと努力するのではなくて、磨いていく感じかもしれない。

そんなこんなで「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」はいろんな気づきや、変わらなくても良いという勇気を与えてくれる映画だった。

個人的にはやはりボビー・リッグスのキャラクターに哀愁ともかっこよさともつかない不思議な魅力を強く感じた。テニスのシーンでの彼の疲れきったベンチでの姿はセリフもないのに色んな事を語ってきているように感じられた。

そしてもちろん普通にお話だけでも楽しいし、最後にはスポーツもの特有の極上のカタルシスもある。
そこに女性特有の華やかさがあってスポーツものとしての新しさもある作品だと思う。

とても良い映画でした。

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では



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