「ダーティーハリー」映画レビュー(ネタバレ) 正義と悪の境界線が揺らぐ

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「これは二人の殺人者の戦いである。一人はバッジをつけている。」

これは1971年にアメリカで公開された刑事アクション映画の金字塔「ダーティーハリー」の宣伝コピー。

名画のコピーらしい鮮やかで洒落の効いたカッコいいコピーだけど、こんなこと言われると正義と悪の境が曖昧になってしまう。

「私が育ったサンフランシスコでは、警察官は最も信頼できない悪党集団と思われていた。」

映画評論家ポーリン・ケイルがこう語るように、1970年代のアメリカの警官は腐敗していた。汚職にまみれ名ばかりの警官が街に溢れていた。
そんな時世の中この「ダーティーハリー」という刑事映画が生まれた。

警官が悪党だと言われた時代に、この映画はどんな刑事像を観客に見せ、何を伝えようとしたのだろうか?

「ダーティーハリー」(1971年公開)
監督:ドン・シーゲル
脚本:ハリー・ジュリアン・フィンク、R・M・フィンク、ディーン・リーズナー
出演:クリント・イーストウッド、アンディ・ロビンソン、レニ・サントーニ

正義の処刑人「ダーティーハリー」

「ダーティーハリー」が今にまで名作と語られる由縁に、90歳になる今でもバリバリの現役映画監督を務める頑張り屋さんクリント・イーストウッド演じる主人公ハリー・キャラハンのキャラクターの魅力があるだろう。

イーストウッド演じる主人公ハリー

主人公ハリーは現役を終えようとしているベテラン刑事。
しかし彼は悪を見たら即座にスミス&ウェッソンのM29(拳銃)から44マグナムをぶっ放し、容赦無く犯人をぶっ殺す冷酷な刑事でもある。
ちなみに44マグナムは鹿撃ち用の猟銃。ハリーは刑事であると同時に街の悪を狩るハンター、そして情け容赦のない正義の処刑人でもある。

ハリーは人嫌いでめったに口をきかない。一匹狼で相棒はつけないし、市長に犯人殺しを咎められても全く信念を曲げない。
悪を見たらすぐに44マグナムをぶっ放す。それが彼のポリシーであり正義。

警察内ではそんな彼を「ダーティー(汚れ仕事の)ハリー」と呼ぶ。

立証はできないが明らかに犯人が分かっている事件や、誰も関わりたくない事件ばかりを彼が片付けるからだ。
要は面倒で危ない事件、犯人をとっとと殺してほしい事件にためらいなく犯人を撃ち殺せるハリーは適任なのだ。

ハリーはある日、街で銀行強盗に遭遇する。
応援を待つべきかと迷ったが明らかに間に合わない、単騎で立ち向かう事を決める。
ここでももちろん44マグナムが火を吹く。
黒人の強盗たちを一瞬のうちに撃ち殺し、残された最後の一人に近付き対面する。
手負いの男の近くにはショットガンが横たわる、男がそれに手を伸ばすとハリーはM29を男に向け、言い放つ。

「考えてるな、俺の弾が残ってるかどうか。

実は考えなしに撃ちまくって俺にもわからん。だがこれは特製の大型拳銃、お前の脳みそが吹っ飛ぶぜ。それでも賭けてみるか?やってみろよPUNK!!(クズ野郎)」

男は降参する。同時にハリーが引き金を引くとカチっと空銃が鳴る。

殺し文句も、ハッタリのかましもカッコいいのがこの男。

そんなハリーはこの後、謎の無差別連続殺人犯と対峙することになる。

悪を楽しむ凶悪犯スコルピオ(サソリ座の男)

一匹狼の男ハリーと対峙するのは無差別連続殺人犯のスコルピオ(サソリ座の男)と名乗る男。

無差別連続殺人犯スコルピオ(サソリ座の男)

スコルピオは狙撃の名手。楽しそうにニヤリと笑いながらターゲットを静かに撃ち殺す。そしてハリーとの銃撃戦の最中にも狂ったように笑いながらライフルを乱射する。
ハリーの手によって一度は逮捕されるが、ハリーの強行的な捜査方法により証拠不明瞭で釈放となる。
そこで彼は謎の黒人に金を払い自分を殴らせボコボコに顔を腫らす。そして自ら通報しハリーに拷問されたとハリーをおとしめる。
スコルピオは金を払ってまで悪を買い、悪を楽しむ男。

しかもスコルピオの動機が全く描かれないのがまた不気味だ。
まるで「ダークナイト」ジョーカーのように全く動機無き悪、純粋な悪。
ニタニタと笑いながら人を殺し、ハリーとの対峙を待ち望むように悪を楽しむ。

ハリーの正義と、スコルピオの悪が激しくぶつかり合う。

ハリーとスコルピオ。正義と悪の境界線

一度はスコルピオを追い詰め、無差別連続殺人の犯人として逮捕までこぎつけたハリーだったが、システムに倣った手順を踏まないハリーの強行捜査が裏目に出た。証拠不十分によってスコルピオは釈放されてしまうのだ。

誰の目にも明らかな程にスコルピオは無差別連続殺人の犯人だが、立証できる証拠は確かにない。
悪は即時懲罰するというハリーの倫理やポリシーが、法律や容疑者の人権保護、そういった巨大なシステムの中に飲み込まれる。

刑事映画って、勧善懲悪がテーマなものが多い。
悪い犯人を無茶しがちな正義の刑事が懲らしめる、みたいなやつ。
あるいは凸凹で半目しあっていた二人に次第に友情が芽生えるバディもの。

しかし「ダーティーハリー」は違う。
むしろ正義とは何なのか、悪とは何なのか?その境界線はどこにあるのか?
私たちの中で固定化されていた倫理観を、平気で揺さぶってくる。

確かにスコルピオは何の動機も示さず罪なき市民を殺し、最後には子供が乗ったスクールバスをジャックする正真正銘の悪。
しかしヒーローとして描かれるハリーも、裸でナイフを持ち女を追いかける男を悪と判断し、平気で撃ち殺す男だ。
それを正義と言い切るハリーは、はたして正しいのだろうか。
無差別に人を殺すスコルピオと、自分の価値基準だけで人を撃ち殺すハリーが、次第に重なって見えてくる。
そして冒頭の宣伝コピーが頭に浮かぶ。

「これは二人の殺人者の戦いである。一人はバッジをつけている。」

ハリーとスコルピオの違いは警官バッジをつけているかいないかだけの違いなのかもしれない。
もちろんスコルピオが超A級の悪人なのは言うまでもない。
そんなスコルピオを命を掛けて倒そうとするハリー、この構図は紛れもなく正義と悪の戦いに見える。
しかし彼らの正と悪が像を重ねる瞬間が、この映画には確かにあるのだ。

ナイフを持った男を悪だと決めて44マグナムをぶっ放すハリーと、スコープを覗きあいつは悪いやつだと決め込んでライフルの引き金を引くスコルピオ。
その違いはどこにあるのかと言われると、確かな答えは見つからない。

「ダーティーハリー」は一見、勧善懲悪の刑事モノに見える。
しかし、大上段から「正義」を振りかざさずに、観ている側の正義と悪の境界線を揺さぶってくる。

クライマックスでは、再びスコルピオを追い詰めたハリーが街中での強盗犯に投げかけたあの台詞を再び吐く。

「考えてるな、俺の弾が残ってるかどうか。実は考えなしに撃ちまくって俺にもわからん。だがこれは特製の大型拳銃、お前の脳みそが吹っ飛ぶぜ。それでも賭けてみるか?やってみろよPUNK!!(クズ野郎)」

今度は残っていた弾丸でスコルピオの心臓を撃ち抜く。

カッコいい殺し文句を吐き捨て因縁の相手を討ち取っても、ハリーの顔は晴れない。
むしろ曇った表情で、迷った表情で、警官バッジを投げ捨て一人乾いた荒野に向かって歩き出す。

ハリーが正義なのか、法律や人権をかざす組織が正しいのか、スコルピオとは何者なのか、それらを完全には明かさないまま、この映画はドライに観客を突き放すラストで幕をおろすのだ。

イーストウッドの荒野へと向かう後ろ姿が、やけに虚しい。。。

はい!
そんなこんなで「ダーティーハリー」、アクションメインの映画かと思っていたらめちゃくちゃ深い事を考えさせられ、価値観をぐわんぐわんに揺さぶられてしまった。

ちなみにこの映画、脚本の初稿段階では「ミランダ警告」というアメリカで警官が犯人を逮捕するときに必ず告げておかないといけない警告がテーマだったとのこと。

そこをストレートにではなく婉曲に伝えてくるからこそ、より一層深く考えさせられてしまう。

というわけで「ミランダ警告」も踏まえて観るととても楽しめる一本だと思います!!

では!!


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