「グレート・ギャツビー」(村上春樹訳)本レビュー エレガントでどこか粗暴。に憧れる

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「一番好きな小説は何?」
って聞かれたら私は真っ先にこう答えることにしている。

「グレート・ギャツビー」だよ。

はい、何を隠そう私はスコット・フィッツジェラルドの長編小説「グレート・ギャツビー」が大好き。

なぜなら、この小説には私の憧れが全て詰まっているからなのです。

「グレート・ギャツビー」は1925年にスコット・フィッツジェラルドによって書かれた長編小説。
主人公ニックと、彼の隣人で謎の大富豪ジェイ・ギャツビーの友情を描きつつも、ギャツビーの大富豪らしからぬある女性への異常なまでの執念の愛を描いた物語。

この小説では夜のシーンが多く描かれる。
海辺で暮らす主人公ニックの隣人ギャツビーという男は自分の所有する大豪邸で毎週末の夜、絢爛豪華なパーティーを開きまくるんです。

根っからの夜型人間、夜大好きの私はこの小説の作者スコット・フィッツジェラルドの夜会の描写に、ついついうっとりとしてしまう。
パーティーの準備のために午後も早くから多くの業者が往来し、闇夜を灯す電球や、色鮮やかな果物、瑞々しい野菜、香りあふれる料理の数々、分厚いガラス瓶に入った酒をギャツビー邸に運び込む。そんなまだ明るい時点を描写することで宵闇に輝く黄金色のパーティーを暗示させる。
そして本番である夜はそこに集まった人々の色鮮やかなドレスや、黄金色の管楽器が奏でる派手な音楽を描写しつつ、パーティー狂いする人々が弾ける様子がきらびやかに、かつ狂乱的に描かれる。

けれど私は決してこのパーティーに参加したいわけではないのです。パリピな願望はなし。
どちらかというと、この海辺の華やかなパーティーの輝きを見ていたい。
対岸からぼんやりと輝く黄金色の光と、かすかに聞こえる演奏や人々の歓声を聞いていたい。
そんで一人ウィスキーグラスの氷をカランコロンとゆらしながら
「またやってらぁ」
なんて言いたい。
このあたりの夜の描写はそんな半狂乱なパーティーに居ながら、どこか他人事のように見つめるニックの視点の距離感も相まって絶妙に心地よい。
夜好きの人はこの気持ち、きっとわかるはず。

そして肝心の主催者であるギャツビーだけれど、彼はなぜか狂乱のパーティーの中心にはいない。
彼はいつも少し高い位置にあるバルコニーからどんちゃん騒ぎや、ひそひそ話をする人々や、泥酔してふらふらな人々をどこか哀しげで、切なさも感じさせるような微笑みをうかべながら眺めている。

きらびやかに光る対岸のパーティーの輝きも魅力的だけど、ギャツビーのようなどこか影のあるような男ってのも憧れる。
悩み事や辛い過去をひた隠しにしながら、実はちょっとチャックからそれらがはみ出てるような、ギャツビーとはまさにそんな男。
そんなギャツビーの哀しく切ない微笑みが、輝く夜にきらりと光るのを思い浮かべるだけで、私はこの小説の一部になりたいと思ってしまう。

そんな男の(というか私の)憧れが詰まったこの小説は、ページをめくるごとに哀しさと切なさと、そして美しさが増していく。

ギャツビーというやつは、男が望む物を手に余るほど持ち合わせている。
お城ような邸宅も、ハイスピードで走る車も、豪華な庭も、大きなプールも、どんな色のシャツも、どんなに高いお酒でも、全部ぜんぶ持っている。

それでもギャツビーにはたった一つ、過去に愛し合ったデイジーという女性だけを未だに手に入れられていない。
それがギャツビーが見せる哀しく切ない微笑みの正体。
しかもデイジーはもう人妻になってしまっている。

人間って普通に生きていればドラマチックな事はそうそう起こらない。
それは退屈かもしれないけれど、なかなか平和でそれ自体は悪いもんじゃない。
もちろんギャツビーだって毎日パーティーをして、大きな家で、のんびり美味しい物を食べていればきっと平穏に暮らしていける。
そう、デイジーさえ忘れれば、彼は一生幸せに暮らせる。

それでも、ギャツビーはデイジーという夢に向かって飛び込んでいく。
彼女がもう結婚していることなんて全く気にせずに。
傷ついてボロボロになるけれど、彼は諦めずに向かっていく。
これまで積み上げてきた地位とかお金とかプライドとか何から全部を武器にして、そして時にはそれら全部をかなぐり捨てて、ギャツビーは突っ込んでいく。
その姿は哀しくて、切なくて、同時に美しい。

そしてその美しさにきっと全世界の男が狂わされる。
「ボロボロになってみたい」「哀しんでみたい」「切なさを感じたい」
そんな半ば狂ったような憧れを、この小説は抱かせてくれる。

夢なんて捨ててしまえば苦しまないし、きっと楽に生きていける。
気づかないフリをして暮らしていれば、いつかは本当に忘れてしまう。
それでも、やっぱり、どうしても、ギャツビーの男の性が止まらない。

「グレート・ギャツビー」って結局はある一人の華麗なる男が、ひたむきに自分の夢に突き進んでいく、そういう泥臭い話だと思うのです。
そんな泥臭さをスコット・フィッツジェラルドの甘く、美しすぎる自然の描写や、細やかな人々の機微の表現で包み込んでいるから、なんだかエレガントな印象もある。
作中、あるシーンで主人公のニックがギャツビーをこんな具合に形容する

今僕の目の前にいるのは、エレガントだがどこかに粗暴さのうかがえる一人の若い男である。

なんたる一文!!
かっこいい…

ギャツビーがこの反則級にかっこいい二面性を持つように、この小説自体もエレガントさと粗暴さの二面性を持っている。
「エレガントであり時に粗暴」この相反するコントラストが、この小説に他のどんな小説にもない怪しげで危険な光を放たせる。
その光は男を狂わせて、並々ならぬ野心を抱かせる。
惨めでもいいから、ボロボロになって、哀しみながら突っ込んで行けとまくしたてる。

この小説を読むと、いつもきらきら光る対岸の光にうっとりさせられて、同時にドラマチックな人生を送りたいという衝動が突き上がってくる。
だから私はこの「グレート・ギャツビー」が大好き。
もし仮に今後これよりも面白い!好き!と思う小説を読んでもきっと「グレート・ギャツビー」が一番好きって答えると思う。
なぜなら私はずっとこの小説に憧れ続けていたいから。

あとそもそもこの「グレート・ギャツビー」というタイトルがカッコ良すぎません?
だってもうこのタイトルの時点でエレガントでどこか粗暴な感じが滲み出ちゃってるじゃないですか。

そんなわけで「グレート・ギャツビー」肉食草食問わず世界中の全男性に読んでもらいたい一冊です!!
そして女性の方は「一番好きな小説は何?」って男性に聞いてみて欲しい。
それでこの小説を挙げたら、きっとその男性は少なくともナイスな憧れを抱いているはず。
素敵じゃないですかそんな男性?ですよね、わかります。

はい……そんな感じで今日は終わります!!

ちなみに今回読んだのは村上春樹訳のもの。
役者あとがきでの「グレート・ギャツビー」への偏愛が物凄い。多分地球上で誰よりもこの作品に愛を持っていると思えるくらいの熱量。
天才が憧れる天才について語る様が本当に面白いのでこれだけでも一読の価値ありです。
(昔に他の訳を読んだけれど村上春樹訳の方が個人的には好きです。表紙も和田誠さんでイカしてます。)

では!!

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