「JOKER(ジョーカー)」映画レビュー(ネタバレ)…マゾヒスティックな快感と、触れてはいけない美しさ

映画

常日頃映画を見る事を習慣としているのは、もちろん映画を見ることが好き、というのが第一にあるんだけれど、年間に100本近く見ていると、映画を見るという行為にある種の哲学的な意味も見出したくもなる。
「なぜ自分は映画を見るのか」自然とそんな問いが頭に浮かんでくる。

年に100本というのが多いのか少ないのか、まぁそこは置いておきましょう。
それなりに映画を見る事を習慣にし始めると、ただ受動的に映画を見るのではなく、そこから何かを得ようとか、何かを感じられそうだからこの映画を見てみようとか、そういう力学が否応無しにも働き出す。
これが良い事なのか悪い事なのかは分からないけれど、少なくとも今の自分にとって、映画を良いとか好きと判断する基準はその映画で語られるお話が面白いかというよりも、やはり自分の心情に何かを訴えかけてくるものだったり、何かを深く考えさせるものだったりするのである。

そうして映画を見続ける日々に、ついに今年最大級に楽しみにしていた映画「JOKER(ジョーカー)」の公開日がやってきた。これといって公開前に誰かと話した覚えはないし、テレビも見ないので分からないけれど、一般的にもかなりの注目作だったんではなかろうか。

マーベル作品であれば、ここまで注目されるのはなんとなく頷けるけれどジョーカーはDCコミックスのキャラクターである。しかもバットマンやスーパーマンのようなヒーローキャラでもない。というよりむしろ完全なる悪役なのだ。
それでもジョーカーがここまで注目されるのは、ジョーカーが単なる悪役ではないからだろう。ジョーカーはアメコミ史上(創作された物語史上といってもいいかもしれない)で最も極悪なヴィラン(悪役)なのである。
そしてそれを本国アメリカだけでなく世界に知らしめたのが、2008年のダークナイト三部作(クリストファー・ノーラン監督のバットマン三部作)の2作目にあたる「ダークナイト」での亡きヒース・レジャーの怪演であることは映画好きでなくてもかなり多くの人に知られているはずだ。

故ヒース・レジャー版ジョーカー

ヒース・レジャーのジョーカーはとにかく圧巻だった。
正真正銘の悪党ここにあり、まさにそんな演技だった。
武器も持たずバットマンに挑み、痛めつけられても不敵に笑い、何が目的かも分からず執拗にバットマンに近づく。
人々の中に潜む悪の心のみを信じ、それをあぶり出そうとしながら残虐な悪を楽しむその姿は敵ながらにうっとり惚れ込んでしまう圧倒的な演技だった。

そんなジョーカーが、しかも主役に据えられて帰ってくるなんて、そりゃもう見ないわけにはいかないのである。
少なくとも「ダークナイト」が好きな人だったら、予告を見たら見ずにはいられないはずだ。

JOKER – Final Trailer – Now Playing In Theaters

そしてこのタイミングにしてジョーカー公開というのも、実は映画界、アメコミ界を俯瞰して見るかなり面白い。
「ジョーカー」はDCコミックスというアメコミ界の二大巨頭のうちの一つ出版社から生まれた作品。DCコミックスは「バットマン」や「スーパーマン」が看板作品だ。
対するもう一つの出版社が皆大好きマーベルコミックス。看板作品には「アイアンマン」「スパイダーマン」「キャプテン・アメリカ」そしてそれらが集結した「アベンジャーズ」シリーズが並ぶ。
そしてそして、そのアベンジャーズの最終章「アベンジャーズ/エンドゲーム」は全世界歴代興行収入を塗り替えたというのも記憶に新しい。
こう見ると知名度や人気、そして興行収入でも明らかに今はアメコミといったらマーベル、エンターテインメント映画といえばマーベルという時代になっている。

そんなところに、正に切り札のごとくDCが切ったカードが「JOKER(ジョーカー)」なのだ。
子供から大人まで楽しめるエンターテインメント超大作で映画界の巨人となったマーベルに、DCはゴリゴリに大人向け、且つシリアスで、陰気で、とことんダークな作品をぶつけてきた。
ここぞというところで、バットマンでもスーパーマンでもなく「JOKER(ジョーカー)」をチョイスするDCコミックス!!作品も渋いけれど、打つ手もめちゃくちゃ渋い!!
(ちなみに自分は圧倒的にDC派です。最近はマーベル人気を鑑みてエンタメ寄りの作品が多いけれど作品の質に関してはDCの方が断然上だと思います。)

というわけで概要を見ていきましょう。

◼️JOKER(ジョーカー)
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー
出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ

あらすじ
舞台は貧困と犯罪が蝕む大都市ゴッサムシティ。(バットマンの中の架空の都市でありニューヨークがモデルと言われている。)御多分に洩れず貧乏暮らしをしている
アーサー(ホアキン・フェニックス)の職業は大道芸人。
心優しいアーサーは病気がちの母親を看病しながら一流のスタンダップコメディアンを目指していた。しかし40歳という年齢や、彼の芸人としての実力から、周りの人間からは完全に見放され、蔑まされていた。
そんな周囲の空気を感じながらも健気に生きていくアーサーだったが、仲間の裏切り、弱者を援助しない社会制度、そして隠されていた母の過去が引き金になり、次第に社会を巻き込むほどの凶悪な存在へと変貌していく。

マゾヒスティックな心地良さと、開けてはいけないパンドラの箱

「ジョーカー」という映画に「これは俺を描いた映画だ!!」と、もちろん大声では恥ずかしくて言えないけれど、そう感じる人がかなりの数いる映画だと思う。
そして何より自分自身もその一人である。
もちろんジョーカーがエンターテインメント性も内包しつつ、現代のアメリカの社会問題を暗に描き出した点で優れている!!という意見もある。
しかし個人的には、もっと狭い、人間一人一人の心の内側に入り込み、その中にある絶対に人には見られたくない部分をあぶり出し、まざまざと見せつけてくる映画、という印象が強い。

回りくどい言い方をしたけれど、自分がジョーカーを見て強く感じたものの一つとして
成功を掴めない人間の卑屈な叫び
というものを強く感じた。
(というのもこれは自分がかなりの卑屈な人間で、未だに目立った成功体験をほとんどしていなくて、常にくすぶり続けているからなんだと思う)

だって後にジョーカーとなるアーサーは40になっても全く芽が出ていないコメディアンなのだ。
家では母親と二人暮らし、恋人もいない、コメディの才能にだって確たる自信はない。
電車に乗れば上等なスーツを着た若い男たちが自信に満ちた顔で、痩せこけてチンケな服を着た自分を蔑むように見る。
もし自分がアーサーだったら卑屈で潰れそうになるだろうと思う。

そう、この「もし自分だったら」を「ジョーカー」を観ていると嫌が応にも考えてしまう。
自分のこの人生の先にはアーサーになる自分がいると考えてしまうのだ。
それはきっと自分がまだ成功を掴めていないからかもしれない。成功を掴むなんてほとんどの人間ができないことかもしれない、それでも成功を望んでしまう人間は多い。
そして少しでも成功と言えるような体験をした人間に対して卑屈な、捻じ曲がった、嫉妬にも恨みにも似た感情を覚える。
そんな人間にとって、このジョーカーという映画は遠くかけ離れているように見えつつも、なぜか自分を重ね合わせて観てしまう。
叶うかも分からない幻想を夢見て、且つその向こうにある最悪の状況をも同時に見る、成功を手にしたい人間はそんな視点を持っている。
そしてこの「ジョーカー」はその二つを同時に、まざまざと見せつけてくる。
そんな二つの視点を持つ人々に、この映画は強く刺さるのだ。ブスっと刺さって痛くてたまらないのだけれど、どうしても観続けてしまう。
ここらへんが嫌にリアルで、嫌だなーと思いつつも、マゾヒスティックな心地よさすら感じて映画に魅入ってしまう。もちろん自分のような人間に向けて作られた映画ではないんだろうけど、何故だか妙に感情移入してしまう。

とはいっても実はアーサーは実際は卑屈な人間ではなく、病気がちの母を看病しながら生活する優しい人間だ。否応もなく突きつけられる現実からは妄想にふけって目を背け続けていた。
そんな彼だったがついに現実に気づいてしまう。
それは自分を取り巻く社会の状況、仲間とも呼べるような人間からでさえ向けられていた蔑みの目、母の過去、そして何より自分の夢であるコメディアン、その才能が欠片もないという現実。
それら全ての現実が一気に彼に襲いくる。
今まで目を背けていたからこそ、それらは一気に押し寄せ、そして彼の心の奥底にあった、着けてはいけない何かに着火し、燃え上がらせる。
それは現実への恨みの炎だ、悲しみとか優しさも燃え尽くし、真っ黒な灰に変えてしまう悪の炎だ。
かくしてアーサーは悪の仮面をつけたジョーカーになった。

このあたりは、マゾヒステッィクな心地よさをはるかに超えて、思わずゾッとしてしまう部分。
絶対にありえないだろうけど、自分の中にある卑屈な気持ちも、行くとこまで行ったら、溜まりに溜まったら、もしかしたらこんな風に暴走しちゃうんじゃないかなと思ってしまってゾッとする。
開けてはいけないパンドラの箱なんて、自分の中にはあるわけもないと思っていたけれど、
「うわ、あんじゃん。よくみたらあんじゃん。」
と嫌ーな発見をしてしまうのである。

映画に何を観るか

最初に書いたように、自分にとって映画を観るという行為はある種の哲学的なものを孕んでいる。
この映画を観て、どんな価値観を得られるか、どのように考え方に幅ができるか、ただそこに物語られているものを楽しむのではなく、そこから何を感じるのか、そこに楽しみを感じている。
だからこそこうして拙いながらに感想を書くことにしている(量としては全然書けていないけれど。)
正直、「ジョーカー」に関しては観る前から大方こんな映画なんだろうという予想はついていたし、それが当たってもいた。
きっと鬱屈を抱えた人間の、その鬱屈がねじ曲がり、悪が誕生する。そんな映画なんだろうと思っていた。
卑屈を売り歩くような自分にはまさに自分を重ね合わせて観られる映画だと思っていた。

しかし、わかってはいたけれど、それでもやっぱりこのジョーカーという映画には打ちのめされてしまった。
大方の予想通りと言ってもいいかもしれないけれど、この映画のフィナーレで感じるものは、自分の大好きな映画監督マーティン・スコセッシの「キング・オブ・コメディ」「タクシー・ドライバー」を観た時に感じるものと大部分は似ている。

自分は他の奴らとは違う、ある特別な才能や、ポテンシャルを秘めている。
今まで見下してきた連中に、一泡吹かせてやる、見てろよ。

と常に思いながらも惨めな行動を繰り返す主人公が最後の最後にとても私的ながらも、独特の美しさのある花火を一発打ち上げて、自分の存在を高々と知らしめる。二つの映画には共通してこんなことを感じた。そこに自分も、いつかこいつらみたいに華々しく花火を打ち上げてやろう、という気持ちになる。
どちらの映画もその最後の私的な花火の打ち上げ方が絶妙で大好きだけれど、今回のジョーカーではそれが格別だ。
なんだか観てはいけない美しさに触れてしまったような、そんな感動がそこにはあった。

それはジョーカーという悪党の誕生の瞬間。
そこに言葉にできないような美しさを感じてしまった。
これまでに映画では感じたこともない高揚感を感じてしまった。

アーサーがジョーカーになったその瞬間、鬱屈を抱えた男が悪になった瞬間、いつも惨めな背中で登っていた階段を、悪の仮面をかぶったアーサーが颯爽と降りてくる、階段に残る雨露がアーサーのダンスのステップで弾ける。
その一瞬一瞬が、強烈な弾丸のように目に、胸に突っ込んでくる。
悪の誕生の瞬間が瑞々しくスクリーンに広がる。

う、美しい…
か、かっけぇぇ…

正直もうそんな感想しかでてこなかった。
いや、それだけで頭の中が埋め尽くされたと言った方が正しいかもしれない。
息を呑むとはまさにこのことだろう。

人間はきっと純粋に美しいものよりも、触れてはいけない、恐怖とか禁断性を帯びたものにこそ心を奪われるんだと思う。
捻じ曲がった鬱屈が、狂気が、悲哀が、惨めさが、全部混ざって悪になった。
それは純度100%の、混ざり物なしの悪。
それは何よりも恐ろしくて、美しい。
その不傑出な美しさに、絶対に感じてはいけないある種の憧れや羨望の眼差しを自分は向けていたと思う。
とにかく正義のヒーローには纏えない、純粋な悪だけが発することができる美しさが、最後の最後に凝縮されている。

いやー、電車に乗ってる乗客が皆仮面を着けているのも、世界が転覆したみたいで良かったですね。

映画を観に行く目的なんてのは、誰もが別々の目的があって当然だ。
そこで何を観たいのか、どんな気分になりたいのか、100人いれば100人の意見があるだろう。
ドキドキするサスペンスか
胸が踊る恋の物語か
未来永劫手に入らないスーパーパワーか
それとも心が熱くなるヒューマンドラマか
自分を投影して心が痛くなるマゾヒスティックなものか

たくさんの「観たい」が映画館にはあふれているはずだ。

それでも「ジョーカー」には一つだけ言える確かなものがある。
それは決して観てはいけない美しさがそこにあるということだ。
ぜひともその美しさを「ジョーカー」で感じてほしい。

そしてその美しさは案外自分の中にもあるのかも、、、なんて思って、悪の仮面を手に取ってしまうかもしれない。
「ジョーカー」を観ると思わずそんな妄想をしてしまう。
ちょっと危険だけれど、2000円ちょっとでそんな体験ができるんだから、冒険する価値はあるだろう。

いやー、まぁ色々とごちゃごちゃ書きましたけど、やっぱり自分が映画を観るのって誰かのかっこいい瞬間とか、誰かの美しい瞬間が観たいからなんだなーと、めちゃくちゃ単純なところに行き着きましたね。
とにもかくにもジョーカーは、自分という人間を客観的に見せられるような、ちょっと痛々しいんだけれど不思議な心地よさと、その先にある一線を越えた美しさが観られる。そんな映画だと思いました。
同時に「ジョーカー」とは違う形で一線越えないといけないなと強く思いました。

まぁ映画に求めるものに関しては、前のブログ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」で全く同じようなこと書いてたわと思ったけれど、まぁ再確認ということで、つくづくそういう映画が好きなんだなと思った次第でございました。

いつも書き始めがね、何書いていいかわかんないんで意味ありげな事言いますけど、あんまり上手く結論に落とし込めないですね。うーん。

あとやっぱり文章長めになってしまうなーというのが何とも解せない部分で、もっと簡潔にサクッと読めるものをたくさん書きたいですね。
一応思ったことはたくさんあるしそれを全部ぶつけたいんだけれど、でも書いていくと色々思ったことに関しても、意外に結論的なものが無いなと感じたりして、映画に関して、というより自発的に何かを書くのは難しいなと感じております。

何故か反省ムードで今日は完。

おまけ

個人的に関連性がある、ジョーカー好きな人は絶対に好き!と感じるものを挙げさせていただきます。

◼️「キング・オブ・コメディ」

『キング・オブ・コメディ』予告編

もうね、映画館で「ジョーカー」の予告編観た時から「これは絶対に「キング・オブ・コメディ」みたいな映画だ!!」と直感しましたね。いや本当に。嘘じゃないですよ。
だってコメディアン役でデ・ニーロが出てるわけだからね、この手のイタ映画(このブログ書いている段階で、自分は自分みたいな人間を見せつけられるような痛々しい映画が好きなんだなとジワジワ気付き始めてきた次第です。)部門ではこれはかなり傑作だと思います。
ストーリーも俯瞰して観ると今回のジョーカーとかなり近いものを感じるし、多分いくつか「ジョーカー」の監督トッド・フィリップスのインタビューを探ればこの作品に影響を受けたと語っているはず。デ・ニーロ演じる主人公の痛々しさが他人事と思えなくて嫌だなー、でも観ちゃうなー、な一作。

◼️「勝手にふるえてろ」

12月23日(祝・土)公開 『勝手にふるえてろ』予告編

え、全然関連性なくない?と感じる人も多いかもしれないけれど、これもかなりのイタ映画。
妄想に耽る女子、というと日本映画の数あるさむーい映画が想起される気もするけれど、この映画は別格。こういう人間もジョーカーのようになる可能性が高いんじゃないかと思う。
誰にも見せたくない負を抱え込み、根拠のない可能性に寄りかかり続けるその姿は、共感したくないけどめちゃくちゃ共感してしまう。
あと松岡茉優の演技が絶品ですね。これ観て完全にファンになりました。
見た後はこちらをぜひ

◼️「ダークナイト」

ダークナイト 映画予告編

まぁやっぱりね、見た方がいいですね。
ヒース・レジャーのジョーカーとホアキン・フェニックスのジョーカー。二人のジョーカーを比べるのも良いし、ただひたすらジョーカーのかっこよさに酔いしれるのも良し。
ただ、勘違いしてはいけないのはこの「ダークナイト」と「ジョーカー」は直接的に作品としての関わりはないということ。つまり二つとも独立した作品なので、今回の「ジョーカー」の後日談として「ダークナイト」がある、というわけではないのです。
何回も見ていると「ダークナイト」でのジョーカーが言っている一見意味のなさそうな言葉が、とても真理を突いていて面白い。
この作品での「ジョーカー」は根拠のない悪事を働き、だからこそジョーカーは真に恐ろしいんだという見方が固定化され、今回の「ジョーカー」でジョーカーのバックグラウンドを描く事自体に批判をする人がいたくらいにジョーカー像を作り上げてしまった作品とも言える。
ちょいと長いですが、ダークでハードでとても面白い一作。

あとは、町山さんの「ジョーカー」評は本当に素晴らしいのでぜひとも聞いてほしいです。

【ジョーカー】たまむすび:19年9月24日

こんなところでしょうか、この他ではスコセッシの「タクシー・ドライバー」もかなりのイタ映画なのでおすすめですね。
あとはトッド・フィリップスの本領であるコメディ作品群、中でもやっぱり「ハングオーバー」シリーズも絶品です。こんなコメディ撮った人がこの「ジョーカー」を!!と感じられて、感想に幅ができる気がします。

では!

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