商業とアートの狭間で、スコセッシが重ねた自らの思い「ニューヨーク・ニューヨーク」(ネタバレ)(考察)

映画

どうも、張り切って連日の更新を重ねています。

本日も映画に関して書かせてもらいます。
ゴールデンウィークなんでバシバシ観ようと思っていたんですが、指折り数えてみるとまだなんと

2本目、、、、

なんですね、、、
というのもちょっと前まではなりふりかまわずばんばこ観ていたんですが、まがいなりにもこうしてブログにするようになってから、一応は考えをまとめたり、特典をしっかり観たり(監督とかが本編に重ねて解説するタイプだと必然的に二回見ることになる)するとなんだかペースが鈍くなってしまいますね。

ただ、前よりは真摯に一本に向き合うようになりましたし、そのぶん一本の映画から得るものも多くなってきてはいる、、、気がします。とは言ってもまだまだ見返すと自分は何を言ってんだかと恥ずかしくなるばかりではありますが、粘り強く続けていこうと思います。

さて今回はマーティン・スコセッシ監督の1977年公開の作品
「ニューヨーク・ニューヨーク」について書きたいと思います。

3個前くらいのブログでもスコセッシ監督の「明日に処刑を」について書いていましたが、何を隠そう、私はマーティン・スコセッシ監督が大好きです。
「タクシードライバー」に始まり、「レイジング・ブル」「グッドフェローズ」まで代表作と言われるものはほとんど見てきました。
今回の「ニューヨーク・ニューヨーク」も含め、まだ未見のものもいくつかありますが、近い日には全作品コンプリートするかと思います。

スコセッシ作品の好きな部分はと言われれば、それはもちろんたくさんあるんですが、
一つ挙げるとしたらそれは、

まだ何者でもない人間が、俺は何かをしでかす人間だ、俺は特別だ、
俺は人とは違うんだ、見てろよお前ら、俺を舐めてた事を、後悔させてやる

と、一人で誇大妄想とも被害妄想ともつかない考え事を悶々としている様を、とてもリアルに、痛々しくも、清々しく描いている、というところです。

なぜそのようなところが好きなのかというと、そんな人間がとても自分に重なるからです。
なぜだか私もこんなふうに根拠のない自信と少しの被害妄想の狭間で悶々としているんです。
様々な劣等感を持ちながら、自然と自分を鼓舞する意味で、こういったマインドセットになっているのかもしれません。

この感情を一番わかりやすく持っている人物が「タクシードライバー」のデ・ニーロ演じるトラヴィスです。

タクシードライバーの主人公、ロバート・デ・ニーロ演じるトラヴィス

トラヴィスを見るとなんだか自分を見ているようでとても辛くなるのですが、すごく気持ちが分かるのです。なんだか泣けてくるんですね。
決して「タクシードライバー」は勇気をくれたりとか、希望を持てるような映画ではないのですが、そのような映画でも、自分を見つめるような気持ちになれて、自分にとってはとても大切な映画です。

とまぁ、本日は「タクシードライバー」の話ではないのでここまでとして、
早々に「ニューヨーク・ニューヨーク」の概要にいきたいと思います。

◾️「ニューヨーク・ニューヨーク」
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:アール・マック・ローチ、マーディク・マーティン
製作:アーウィン・ウィンクラー
出演:ライザ・ミネリ、ロバート・デ・ニーロ
音楽:ラルフ・バーンズ、ジョン・カンダー、フレッド・エッブ

◾️あらすじ
1945年、第二次世界大戦が終結した夜、ロバート・デ・ニーロ演じるジミーは、
ライザ・ミネリ演じるフランシーヌに一目惚れし、長時間口説き続ける。
その日はあえなく撃沈したジミーだったが翌日にホテルで再会し、彼は
フランシーヌをあるオーディションに強引に同行させる。

あるオーディションとはダンスクラブのジャズバンドのオーディション。
ジミーは凄腕のサックス奏者だった。
しかし、クラブのテイストとは違う即興でパワフルな演奏をするジミーは受け入れられない、それを見ていたフランシーヌは突然歌い始める、実はフランシーヌもとんでもない才能をもつシンガーだった。

ともに芸術家である2人は半ば強引なジミーの押しもあって惹かれ合い、結ばれる。二人は同じジャズバンドに入り各地を転々とするようになる。

しかし、お互いの才能に惹かれ合いながらも、ときにその才能がぶつかり合い、
次第に2人の関係は徐々に溝を深めていく、、、

はい、といった具合のお話なんですね。
ストーリー自体は近年のリメイクが記憶に新しい「スター誕生」みたいな古典的なラブストーリーをベースに展開されます。
このあたりは監督のマーティン・スコセッシが「参考にしやした」と解説にて明言しておりました。
ただただ、そんな古典的なストーリーの中には、スコセッシがあえて採用を決めた従来のハリウッドシステムでによる虚構と現実商業とアート、など様々なテーマが詰め込められています。
なんだかんだで最終的には160分の大作に仕上がりました。長いですね〜。

全然甘くないラブストーリー
これは男と女の戦争!!そして芸術家と芸術家の戦争映画だ!!

前述のように、この映画は古典的なラブストーリーをベースにはしていますが、もちろん今作は巨匠マーティン・スコセッシの作品です。男女の愛だなんてそんな簡単な話だけに終始するわけがありません。

この作品は言ってしまえば

男と女のセクシャリティの壁を挟んだ戦争であり
芸術家同士の激しいプライドをかけた戦争

なのです。
スコセッシはこの映画の解説で

「何が人を結び、何が人を引き裂くのか、それがこの映画の根本のテーマだ」

と語っています。
その「何が」というのは、ズバリ言ってしまうとこの作品では音楽なのです。

音楽によってジミーとフランシーヌは結ばれ、音楽によって2人の間は引き裂かれます。
この映画はそんな皮肉な展開になっているのです。
つまりはお互いが惹かれ合うものが同じだと、最終的にはその部分が激しくぶつかり合ってしまう、という事を描いているのです。

それではストーリーに沿いながら、激しい男と女の、芸術家と芸術家の戦争の歴史を辿っていきましょう!!

いつだって始まりは彼女の歌声だった

冒頭のデニーロ演じるジミーのオーディションで、彼を合格に導いたのは彼自身のプレイではなく、彼を落ち着かせるために歌ったフランシーヌの歌声でした。
ジミーもテクニックこそは一級品で、自分のサックスプレイに絶対の自信を持っていましたが、問題は彼のプレイスタイルでした。
彼が目指すスタイルはその場のノリを掴み、一気に即興で盛り上げる、芸術性の高いプレイスタイルです。
しかしそんな彼のプレイは紳士淑女が気持ちよく踊るダンスクラブでは敬遠されるスタイルでもありました。
この初めのオーディションも、フランシーヌの歌のおかげで彼はダンスクラブでプレイすることができるようになりました。

共に音楽に生きるフランシーヌ(左)とジミー(右)

その後もどこのダンスクラブのオーディションでもフランシーヌの歌を聴いた途端に支配人達は眼の色を変えます。
その場の雰囲気をガラリと変えるキャッチーで心地よい歌声は、悔しいかなジミーのサックスが霞んでしまうくらいに魅力的で、どんなダンスホールにも体良く響くものでした。
仕事がもらえないピンチの時、いつだって助けてくれたのはフランシーヌの歌声でした

そんなフランシーヌの歌声をダシに、ジミーは自らのバンドを従え多くのダンスクラブで契約を掴んでいきました。
バンド名はジミー楽団でしたが、実質的に客の心を掴んでいるのはフランシーヌの歌声。
契約をとり、バンドを助けているのも実際にはジミーではなくフランシーヌの歌声でした。

もちろんジミーはそのことに気づいていました。
同時にバンドの中で彼女の存在感がどんどん大きくなることを、半分は嬉しく思い、半分は嫉妬し、恐れ、いつしかそれは怒りにも似た感情になっていきました。

そしてフランシーヌも自分の才能に気付き始め、時には傲慢になりながらも芸術家としての自覚が芽生えつつありました。

そして2人は少しずつぶつかり始めます。
互いに愛し合い、結婚することになったジミーとフランシーヌでしたが
男と女という関係に、互いのアーティストのプライドが複雑に絡み始めます。

崩れ始めるジミーのプライド

フランシーヌはジミーの子供を身ごもったことをきっかけに、バンドを抜け単身ニューヨークに帰ることになります。
フランシーヌが抜けたバンドはなかなか良いボーカルが見つけられず、評判はどんどん下がり、ジミーも周りのレベルに合わせるのに疲れ、バンドを抜け無職になってしまいます。

妊娠中だったフランシーヌでしたがバイトで始めたCMシンガーの実力が大きな評判を呼び、ついにはレコードデビューをすることとなりました。

周りにも認められアーティストとしての自我が芽生えつつあるフランシーヌでしたが、
強い意志がまだ無い彼女は、どんな選択もジミー任せでした。
そしてレコードデビューの件もジミーの了承が必要だと考えます。

レコードデビューを快諾したジミーでしたが、なんだかその表情、そして態度も浮かないものでした。
映画の中では多くの事を語ってはいませんが、田舎を巡業するバンドにさえ客を呼べなかった自分とは対照的に、自分の恋人はレコードデビュー、アーティストとしてのプライドが、男としてのプライドが音を立てて崩れ始めていました。
あくまでこれは個人的な見解なので、必ずしもジミーがそんな感情になっていたかは定かではありません。

しかしその時のジミーの感情は間違いなく喜びとは違う複雑な感情だったと思います。
スコセッシはこのシーンをジミーが何者かに電話をしているシーンとして描いています。
電話口で何を言っているかはわかりません、劇中ではクラブで電話をするジミーの音声とは別に、フロアで歌う女性シンガーの歌声だけが流れるという、なんとも意味深い、印象的なシーンとして描かれています。
(ちなみにこの時歌っている女性シンガーは当時のデ・ニーロの奥さんであるダイアン・アボットという女優さんです。)

初めて自ら決断を下したフランシーヌ
それは明確な、ジミーへの宣戦布告でもあった!!

フランシーヌがビリーにレコード契約の相談をした夜、突然フランシーヌは出産します。
(そんな出産近い日にクラブなんていくなやと正直思いましたが、、、)
出産前、ビリーは抑えていた感情を爆発させます。

俺は子供なんて産みたくない!!
お前を愛しているけれど、子供なんていらない!!

普通の幸せよりアーティストとして生きていきたい彼にとって、子供は障害であり、アーティストとしての終わりを意味していたのかもしれません。

この告白もあり、フランシーヌはジミーが一番大切にしているのは自分や子供といった家族ではなく、音楽なんだと気づきました。
そしてそんな彼が自分のデビューを心からは喜ばしく思っていないことにも、もちろん気づきます。

そして産まれた子供の顔を見ることもなく彼は消えて行ってしまうのでした。

しかし、ビリーが子供が欲しくなかった理由は映画で描かれている理由だけなのでしょうか?
ここでは違った見方もできるのではないかと個人的には感じます。
そして、まさにここで2人の戦争は最大の盛り上がりを見せます。

果たしてビリーが子供を産ませたくなかった本当の理由はなんだったのでしょうか?
もしかすると彼が本当に嫌だったのは、
本当に恐れていたのは、
子供ができることで芸術活動に障害になることでも、子供を育てることでもなかったのかもしれません。
彼が本当に恐れていたのは

成功の階段を上り始めたフランシーヌに、彼自身が育てられる(養われる)事。
だったのではないでしょうか。
男としてのプライド、アーティストとしてのプライド
それを傷つけられるのが恐ろしかったのではないでしょうか?

つまり、アーティストとしての方向性こそは違うものの、明確にアーティストとして負けてしまうこと、その現実から、彼は逃げたかったのではないかと思うのです。

そしてそんな彼に、今まで及び腰だったフランシーヌがついに反撃に出ます。
フランシーヌはなんと子供に

「ジミー」

と名付けるのです。

これまで何をするにもジミーの許可を請うのが常だった彼女が勝手に、
しかも、夫と同じ名前を子供に付けたのです。

まるで今後主導権を握るのは私で、あなたは私が養う
というメッセージともとれるようなとても強烈なシーンだったと個人的には思います。

何よりこの時のフランシーヌの表情は、この身一人で我が子を育てると決めたような強い表情とアティチュードを持っていました。女としてより、アーティストとしてより、生物的に、ジミーとの戦争に見事勝った母の顔に彼女はなっていました。

対照的に病室を出て行く、ジミーの寂しげで惨めな姿もとても悲しかったです。

時は流れ、他人を許し、自分を許せるようになった二人
物語は終焉へ

時は流れ、フランシーヌは誰もが知るトップ女優にの座を掴んでいました。

全米で大人気になったミュージカルに出演し、まるで彼女の人生をそのまま描いたような物語の主人公を演じます。
この劇中劇では、一人の少女が運命の男に導かれスターダムに駆け上がる物語が描かれています。この少女はもちろんフランシーヌで、運命の男はもちろんジミーを表しています。
フランシーヌとジミーのこれまでの関係性を簡潔なニュージカルとしてメタ的に表現しているのです。

今の成功があるのは彼女の才能だけではない、ジミーが強烈に芸術への道を突き進み、それに引っ張られるようにして彼女もここまでこれた、という事をこの劇中劇で表しています。
ここらへんはバランス感覚のある良い脚本だと思いました。

一方のジミーも、自らが作曲した曲「ニューヨーク・ニューヨーク」が評判となり、自分のクラブをオープンし成功者になっています。

最後には再び出会う2人でしたが特にドラマチックな展開は待っていません。

2人の子供ができた日に、子供の顔も見ずに別れた。
そんな劇的な別れをした2人なのに、何事もなかったかのように顔を合わせ、会話ができてしまいます。

あまりにも何事もなかったかのようすぎて拍子抜けしてしまうんですが、ここでは
互いがたくさんの経験をし、長い年月を経れば、他人や自分を許せるようになる
そんなことを表現したかったとスコセッシは解説で語っていました。

最後の最後に、ジミーはフランシーヌに電話をし、中華でも食べて少し話そう
と誘うのですが、2人とも合意はしながらも、2人ともそこには足を運ばないのでした。

かくして
2人の男と女の、芸術家と芸術家の戦いは、
「時の流れ」というノーサイド決着で幕を閉じるのでした、、、、

「ニューヨーク・ニューヨーク」でスコセッシが
映画作品として表現したかったものとは

この映画のDVDでは先述のように本編映像に被せてスコセッシが解説をする特典がついています。
そこには若かりし頃のスコセッシのたくさんの意欲的な挑戦が語られています。

まずこの映画で一番気になるのはいい意味でも悪い意味でも「作り物感」です。
この映画の公開は1977年。
従来のハリウッドスタイルの映画が終わりを迎え、ヨーロッパの映画が人気を集め、アメリカンニューシネマが台頭していた時代です。(正確にいうとアメリカンニューシネマも既に終わりを迎えつつあるムード)
ハリウッドスタイルの映画とは言ってしまえば全編を通してハリウッドのスタジオの中で映画作りを行ういわゆるスタジオシステムのことです。
その映画の中ではたとえパリという設定でも、撮影していたのはハリウッドです。書き割りやセットで背景を建て、雪や、雨も全て人工的に作っていました。

スコセッシはこの映画であえてこの廃れきったハリウッドのスタジオシステムに目をつけました。

作り物の、人口の世界の中で、芸術家どうしがぶつかり合う生々しさを表現する。

それが彼の狙いでした。
キャストにも基本的にアドリブで演技をさせて、人口の世界と生の人間の生の掛け合いを対比させる事を狙いました。

タイトルにもそのコンセプトが如実に表れています、ニューヨーク・ニューヨークと、ニューヨークが二回繰り返されています。
これには作り物と、リアル(現実)という意味が隠されているのです。

スコセッシは一流の映画監督であり、生粋の映画オタクとしてもしられています。
もちろん様々な国の映画に造詣が深く、特にハリウッドという規制に縛られた映画よりも、ヨーロッパ映画の自由で芸術的な作風に影響を受けたと語っています。
しかしながらこの作品で彼はあえて過去のハリウッド的であることにとことんこだわりました。
そこには上記のような対比を際立たせるという狙いに加えて、ハリウッド特有の「お約束」エンディングに新たな意味性を込めるという狙いもありました。
ハリウッドの「お約束」の結末が語るメッセージは単純明快で、その真意は誰も否定のしようがありません。
しかしそこに今作では男と女のプライド、芸術家同士のプライド、両者を結びつけるものが、逆に両者を仲を引き裂くことにもなる、という新しくもあり、普遍的なメッセージを新たに加えました。

過去のスタイルを踏襲しながらも、そこに新たな価値を付加するという一種のポストモダン的な目線でハリウッド映画を捉えたという点で今作はスコセッシのフィルモグラフィの中でも際立った存在であると言えるかもしれません。

大ヒット作「ラ・ラ・ランド」との類似性

この映画を見ていると、大筋がある映画に極端に似ていることに気づきます。
もう上に書いちゃってますが、そう「ラ・ラ・ランド」ですね。

ストーリーや2人の関係性、ほぼ登場人物が2人、の点はもちろんですが、シーンにもめちゃくちゃシンクロするシーンがあります。

例えば、ジミーがニューヨークに帰ってきてピアノに向かい、この作品のタイトルでもある「ニューヨーク・ニューヨーク」を作っているところにフランシーヌが寄り添うシーン。
ここなんかはもろに「ラ・ラ・ランド」で同じシーンがありましたよね。

あとは色彩デザインなんかのコンセプトも「ラ・ラ・ランド」はこの映画からヒントを得ているのではないかと思います。
「ニューヨーク・ニューヨーク」は冒頭、ジミーの履くツートーンの派手な靴のショットで始まります。
そして映画のエンディングでは同じくジミーの靴のショットで締められるんですが、この時のジミーの靴はとても落ち着いた、黒の、大人が履くような靴なんですね。
これは、長い年月を経て若かった野心やプライドが落ち着いて良き風合いになっていることを表現したみたいなんですね。スコセッシのアイデアとのことです。
「ラ・ラ・ランド」も前半は原色のドレスとかが画面いっぱいに散りばめられたバチバチした色彩構成なんですが、物語が進んで、夢破れたり叶ったりしながら登場人物たちが大人になり落ち着いていくのと同時に、画面上の色もトーンをおさえていくという色彩デザインになっています。
ここらへんは明らかに「ニューヨーク・ニューヨーク」がヒントになっている、というかオマージュなんではないかなと思います。

でも「ラ・ラ・ランド」は商業的にも大ヒットを納めた反面、実はこの「ニューヨーク・ニューヨーク」は商業的には大ゴケしました。
先述したいかにもな「作り物感」でのスコセッシの狙いは、大衆には全く届かず、ストーリーの間延びも多かったため、とにかく退屈な作品の烙印を押されてしまいました。要は商業ヒットをとるか、アートをとるかで、アートをとったスコセッシは完全に失敗してしまったのです。
「ラ・ラ・ランド」の監督のデミアン・チャゼルもスコセッシに負けず劣らずのこだわりを見せる芸術家肌の監督です。
あとから編集がいかようにも可能なデジタル撮影でなく、フィルム撮影に徹底したり、
夜明けのほんの数分を狙ったロケーションでの撮影を行ったり、難易度の高すぎる長回しに挑戦したりと、CGで再現が可能なものまで全てリアルにこだわりました。
そうして出来上がった映画は色彩から、一発勝負から生まれる役者の躍動感まで全てを含めて最高の出来上がりでした。ストーリーに難があると言われている部分がありますが、映画全体のルックはアートの域に達しているような出来栄えです。

しかし、この「ラ・ラ・ランド」がこのような成功を納められたのも、現代のテクノロジーや映画の制作体制があってこそものもだとも感じられます。
スコセッシももちろん構想していたアイデアは「ラ・ラ・ランド」に近いものがあったと思います。
ただ、時代を先取りしすぎてしまった!!それがこの「ニューヨーク・ニューヨーク」のとても惜しいところです。

商業とアートの狭間で揺れた思い
その思いはそのまま盟友デ・ニーロ演じるジミーに

「ラ・ラ・ランド」が商業的にヒットしたように、スコセッシにもこの映画を商業的にヒットさせることは難しくなかったかもしれません。
なぜならスコセッシは「タクシードライバー」のようなノワールなインディペンデント映画から「ディパーテッド」のような娯楽大作までこなすような幅の広い柔軟な感性を持った監督だからです。(とはいっても「ラ・ラ・ランド」級はさすがに難しいですね、、、)

事実スコセッシも商業とアートの世界では常に揺れていたそうです。
この「ニューヨーク・ニューヨーク」の主役であるジミーには、スコセッシがヨーロッパの自由な映画に憧れながら映画業界の門戸を叩き、門をくぐった先のハリウッドでの商業的な世界に戸惑った経験を重ね合わせたと語っています。
ジミーは商業的な壁にぶつかりながらも、自分の信念を曲げずに芸術家として生き続けました。最後にはジミーも大きな成功を掴んでいます。
この結末にスコセッシは自らのスタンスと希望を込めたんだなと思います。
たとえ映画がこけようと、信じた道を歩み続けることの大切さを強く感じさせてくれました。

そんな役に自らの作品と共にスターダムに登りつめた盟友デ・ニーロをキャスティングする、というところもまた泣けますね。

結局のところ、「ニューヨーク・ニューヨーク」は面白いのか

さて、ここまで長いこと書いてきましたが、個人的な感想はまだでした。
個人的な点数としては、んんんんん

55点

といったところです。
こんな長々と書いてきましたが、この映画が面白いかどうか、と問われると
正直言って

面白くはない

です。
なんせ私個人はスコセッシが狙ってあえて使っていた「作り物感」が本当に性に合わなくて、なんならニューヨークの街並みを撮った映画が見たかったのに、全然ニューヨークが映っていないのにはかなりショックでした。
そしてなにより全編スタジオ撮影、背景書き割りというのは単純にやっぱり気味が悪いんですよね、ずっと室内にいるようでとても閉鎖感が強いんです。

加えてミュージカルも個人的には苦手なもんでして、特にライザ・ミネリ演じるフランシーヌのミュージカル中の顔芸がいちいち主張強くて、見ていてイライラしてきてしまったんですね。
特に目をカッ!!て見開くとこなんか、ひぃぃぃぃ!!!やめてぇぇぇぇ!!と恐怖感すら覚える始末でした。

あとは全体的に間延びしてるストーリー展開だったり、起伏がそこまで感じられない作りとかは、ちょっとスコセッシさんアート色強くて、お話に魅力が無いよ、、、、という感じがしました。

もちろん良いところもたくさんありましたが、その部分は先の方でだいぶ熱っぽく書いてあると思うので割愛させていただきます。

いやー、大好きなスコセッシ作品だけあって、ついつい長々と書いてしまいました。
長文読んでいただいた方、本当にありがとうございます。

まだ未見の方でしたら、おすすめ!!というわけではありませんが見ておいて損は無い作品だと思います。

ブルーレイは下記からどぞ!!

おわりに

終わりに今回の作品と少しでも関係ありげな映画をいくつかご紹介します。

「アイリッシュマン」

まずは、まだまだ現役バリバリのマーティン・スコセッシ。
なんとこの秋遂にNetflixデビューをするみたいですね!!
しかも個人的に大好きなギャングものみたいです。
まだ映像自体はちゃんとでていませんがトレーラー貼っておきます

キャストがやばいですねー、まさに今回取り上げました「ニューヨーク・ニューヨーク」のデ・ニーロ筆頭に、アル・パチーノ、そして曲者ジョー・ペシ
これは話題が集まること間違いなし!!
めちゃくちゃ楽しみです!!

「JOKER」

楽しみでいうと一時期スコセッシが監督するなんて話題もあった、アメコミ史上最高のヴィラン、バットマンの宿敵ジョーカーにスポットを当てた「JOKER」もめちゃくちゃ楽しみです

JOKER – Teaser Trailer – Now Playing In Theaters

シリアス路線が得意なDCの真骨頂が久々に見られそうです。
こちらにもデ・ニーロが出るみたいなので取り上げさせてもらいました。
もしかして「キングオブコメディ」にも通ずる話なのかななんて思ったりました。

イレイザーヘッド

アーティストが子供に対してどんな感情を抱いているか、というのはデビッド・リンチの「イレイザーヘッド」でも間接的に描かれているように、とても複雑ではありますが普遍的な問いを持った問題だと思いますので最後にご紹介しておきます。

映画「イレイザーヘッド」日本版劇場予告

予告編はかなり不気味なので、ちょっと閲覧注意です。
カルト映画ではありますが、なんとも興味深いのでおすすめです。

長々と失礼いたしました。
では!!

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