この世に生まれた瞬間に、人は必ず誰かの子供である。
親になったその時も、親として死ぬその時も、必ずその親も誰かの子供でもある。
先日中国人SF小説家のケン・リュウの書いた「紙の動物園」という短編集のこれまた同名の「紙の動物園」という短編を読んでいたく感動し、色々な人にオススメしまくっていたのでそのことについて書いてみる。
「紙の動物園」は、アメリカで生まれた主人公の少年と、中国からの移民の母の物語である。
中国の貧しい農村で生まれた母は若くして主人公の父である夫に嫁として買われ、アメリカで暮らすことになった。
アジア人特有のつり目で、身長もアメリカにいれば一際目立つほどに小さく、ろくに英語も話せない母親。しかし彼女は、折った折り紙の動物に命を吹き込むことができる、そんな小さな魔法を持っていた。
ざっくり話すとそんなお話だ。
「小さな魔法」なんて言葉を出した瞬間に、この話に「いつもの日常の中の、ちょっと小さな非日常の話」
なんていかにもらしいキャッチコピーがついてしまいそうだが、この話はそんなあまったるい次元のものではない。
(ちなみに上記はなぜか森見登美彦の「ペンギンハイウェイ」みたいな話のことを言っています。
別に嫌いなわけじゃないです。槍玉にあげた感じに書いてるけど別に嫌いなわけじゃないです。)
しかし矛盾するようだけどこの話が「いつもの日常の中の、ちょっと小さな非日常の話」
であることは確かである。
古典SF小説のように壮大な世界が広がるわけでもなければ、現代社会に対するメタファーも批判も感じない。
ただそれでも、「いつもの日常の中の、ちょっと小さな非日常の話」なんていかにもなキャッチコピーの次元の小説ではない。
なんといってもこの小説は
今自分がいるこの現実、小説という創作によって生まれる余白、その両者の距離が実に心地良い。
この現実と小説の間の余白の距離がもう、やはり、こう、、、、絶妙なのだ。
「絶妙」しか出てこない自分の語彙に憤りを感じるほどに、でも本当に、「絶妙」なのである。
現実ではないことは分かる、分かるんだけどぉ!!
かといって「SF」というジャンルの枠にはめるのは窮屈すぎるし、「ちょっと不思議な」だなんて雰囲気だけの言葉で片付けようもんなら平手打ち!!と、ふがふがと一人もがき苦しむほどに、この小説の現実との距離感は絶妙だ。快感に近い域に達している。
動き出す動物は目に浮かぶように生き生きとして可愛らしい。
彼らの小ささや、無邪気さは、こちらに伝わるというよりも、自分が幼い時に自分のそばにいたように、「思い出す」という感覚に近い。
なんならもう現実でいいよ、そういう現実があったっていいよ。ってか俺にもあった気がするよそんな思い出。
そんな風にすら思わせてくれる。
とりあえずはこの小説がそこいらのちょっとしたファンタジックな、ちょっと不思議なお噺、からは一線を画していることだけはお伝えしておきたい。
そんな生ぬるいもんではない。
もちろん決してハードで痛々しいものでもないし、最終的には本当に心が温まる小説なのだ。
でも、
でも、である。
実はほんの少しゴツっとした硬さと、痛さが伴う。
「紙の動物園」は実はそんな小説でもある。
本当の快感は痛みも伴うのでは、そんな気持ちにさえさせられるのだ。
あまりロマンチックな話じゃないけど、それがほんとうの話。
「紙の動物園」より
自分の恵まれない人生、そして父との出会いを手紙に記す母のこの言葉。
それらが
皮膚を通り、骨を通って、心臓をぎゅっとつかんできた
「紙の動物園」より
こんな風に大人になった主人公の胸を突いてくる。
成長するにつれて、母がアメリカにいる理由を知り、それがどんな意味を持つのか、周囲がそれをどう思うのかを知るようになる。
大人になるにつれて様々なことを知り、様々な価値観を見出していく。
父に買われた人が自分の母であるという逃れられない自分の生まれ
ロマンチックから生まれなかった自分の生まれ
それを恥じる自分
次第に会話を交わさなくなった母と
靴箱に閉じ込めた小さくて無邪気な紙の動物たち
幼い頃は大好きだったこんな思い出よりも
母の病気よりも、就職面接が気になる自分
おだやかな文章の中に、ちょっと不思議なSFなはずの文章の中に
読んでいる自分の現実がいつのまにか挿入されている。
かけがえのない母の重篤よりも、自分の目の前にある楽しい現実や、辛い現実に時間を割きたい。
世間の善良な価値観では信じられないような自分という現実が物語に挿入されている。
世の中の「子」である人々はきっと、もちろん全員ではないと思うけど、
こんなふうに親に対して、気重いものを感じてる人は多いのではないかと思う。
親と過ごす時間より、友達や恋人、仕事や趣味を優先したい人はきっとたくさんいるだろう。
親というのは面倒だ
いくつになっても子供の頃好きだったものをまだ好きだと思っていて
いくつになっても口うるさくて
いくつになっても親の面をし
立てなくなると、立たせてあげないといけない
そして何より、自分を育ててくれてしまっている。
でも厄介なことに、たくさんの温かい思い出をくれてしまっている。
もちろん嫌いじゃないけど、はぁ〜めんどくさいと思う。
面倒な親子関係なんて気にせず生きたいと思う。
老いた親の面倒なんて、診たくないと思う。
期待もプレッシャーもいらないよって思う。
そんな時この小説が胸を突いてくる。
優しくもちょっとゴツっとしたタッチで突いてくる。
あ〜俺って「子」として生まれちゃったんだと気づかされる。
欲しいなんて言ってない愛をもらってしまっている。
優しい顔して、この本は意外に痛いとこついてくるのだ。
だからきっとこの小説は絶妙な距離感の非日常を描きつつも、
その実、とんでもなく日常の現実を描き出してもいる。
でもそこにこそ快感がある、痛いからこそきっと本当の快感なのだ。
ふわふわした心地いい夢の中にある
ちょっとゴツっ!とくる現実の痛さの快感を
この小説の中から掴み出してもらいたい。
是非たくさんの人に読まれることを願います。
ちょっと余談だけど、自分がこの本を読んでありありと小説の中に書かれる光景が目に浮かんだのは「KUBO/日本の弦の秘密」を見ていたからなのかなとひっそり思っている。
お時間あれば是非とも併せて見て欲しい。
前編ストップモーションで作られた映像が圧巻の人形劇。
では!!
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