子供から大人へ、無名の新人女優から伝説の女優へ。オードリー・ヘプバーンがまぶしい「ローマの休日」

映画
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どうも、全然閲覧数が増えませんがこつこつと書いていこうと思います。

本日も旧作、しかも名作中の名作「ローマの休日」についてつらつらと書いてみようと思います。

前にも書きましたが古い映画を見るのは未だにあまり慣れません。
というのもやっぱり現代の映画に慣れてしまうと絵の迫力がなかったり、シーンの切り替わりが安っぽかったりしてどうにも集中力が続かないんですね。
ただまぁ中には本当に今の映画にもひけを取らないくらい面白いものもあったりで、そういうものを見ると、やっぱりみておかないとなぁと思う次第です。

そしてそして今回観てみた「ローマの休日」がじつーーーーに素晴らしかったので、興奮冷めやらない間に一気に書こうと思った次第です。
でもぶっちゃけ観たのはもう一週間くらい前ですので完全に興奮は冷めてはいるんですが、今回はそのぶん、今作に関して色々と調べたりもしましたのでその部分も書いていこうと思います。

では下記にざっと概要を

「ローマの休日」(原題:Roman Holiday)
公開:1953
監督:ウィリアム・ワイラー
脚本:ダルトン・トランボ
出演:グレゴリー・ペッグ、オードリー・ヘプバーン、エディ・アルバート
音楽:ジョルジュ・オーリック
撮影:アンリ・アルカン、フランク・F・プラナー

複雑な時代に撮られた画期的な作品

この映画の脚本を書いたダルトン・トランボは「素晴らしき哉、人生!」や
「スパルタカス」で知られる有名な脚本家です。
しかしこの映画では彼の名前はクレジットされていませんでした。

なぜなら1940年代アメリカでは「赤狩り」という共産主義圏の人や思想を排除するという運動が盛んで、ハリウッドでも同様の運動が起こった時に、それに反対したダルトン・トランボはハリウッドを追放されてしまったのです。
ダルトン・トランボはとても政治的なメッセージの強い話を書く人で、私自身まだ未見な作品も多いのですが、ベトナム戦争真っ只中に監督を務めた「ジョニーは戦争へ行った」なんかを見るとそのメッセージ性の強さを伺えます。

ジョニーは戦場へ行った 予告編
反戦的なメッセージが強く、そしてなにより本当に恐ろしい「ジョニーは戦場へ行った」

ちなみに同時期に同じ理由でハリウッドを追放された映画人10人はハリウッド・テンと呼ばれています。
そんなダルトン・トランボが脚本を書いたとなれば

面倒だ!ハリウッドでの撮影なんてできない!

てことで、この映画の撮影は全編ローマでのロケで行われました。
これは当時のハリウッドではとても珍しいことで、この時代のハリウッド映画は基本的にハリウッドのスタジオの中で大掛かりなセットを組んで撮影がされていました。
そんなハリウッドの製作法を逸脱した映画としてこの映画はとても画期的だったのです。
今では当たり前のロケ撮影も昔の撮影事情ではとても新しい手法だったんですね。
たしかに映画などで昔のハリウッドの撮影シーンが映ると、巨大なスタジオの中で大きなセットを組んでめちゃくちゃ眩しい光を当てて撮影しているシーンなんかがあった気がします。

でも、中身は単なるラブストーリー?

そんなハリウッドから追放されたダルトン・トランボが作ったお話だから、ローマの休日って実はすごい政治的な事が描かれた映画なの?と思ってしまうかもしれませんが、そこは観た事がない人でもなんとなく知っているようなあわ〜い可愛らしさのあるラブストーリーになっています。

この映画はヨーロッパの某国の王女であるアン王女(オードリー・ヘップバーン)が王女の勤めに疲れ、自由の声がこだまする古都ローマで、憧れだった普通の人々の生活を体験し、そこでアメリカから派遣されている新聞記者のジョー(グレゴリー・ペック)と恋に落ちる。ざっくり言うとまぁそんなお話です。

しかしながらこの映画は前述のダルトン・トランボの書いた脚本、そして従来のハリウッドスタイルからあえて離れ、そのころ他のどこもやっていなかった前編ロケ撮影をした映画です。
ただの王女と一般人の身分の違いといった普遍的なラブストーリーとはもちろん一線を画しているのです。

随所にちりば散りばめられたサブテキスト

この映画はダブルミーニング(二重性)やメタファー(比喩)を随所に散りばめ、映画にたくさんの意味を込めています。
ダブルミーニングとは文字通り一つのセリフや所作に二つの意味を込めた表現のことです。

まず冒頭でアン王女はローマに到着し、パーティーに招かれます。
初めは王女らしく振る舞うアンでしたが、次第に慣れない格好と姿勢で長時間いるので足がむず痒くなってきてしまいます。
ここでアン王女はドレスに隠れた足元で靴を脱いでほっとした表情をするんですが、この本当にちょっとした演技で彼女にまだ残る少しの子供らしさや、おてんばなパーソナリティーをすごく感じさせてくれます。
セリフ一つなくしてここまでの情報を見せてくれる演出は本当に素晴らしい。
そしてそれを絶妙にキュートに演じきるオードリー・ヘプバーン、この1シーンでこの映画にグッと引き込まれてしまいます。

オードリー・ヘプバーン演じるアン王女

ここではコメディタッチながら、この王女がまだ王女の品格がない、子供の王女であることが言葉なくして物語られます。

そしてその夜、彼女はお支えの女性に寝る前にミルクとクッキーをもらいます。
周りの大人からもまだミルクとクッキーという子供が好きなものを与えられていることからも分かるように、彼女は大人として見られていません。
そんななか、超過密な翌日王女の勤めの予定を伝えられ、ついに彼女は発狂してしまいます。
「王女なんて嫌!普通の生活がしてみたい!」
彼女は自分の生まれたしまった境遇自体を嫌に思っていました。
なんで自分だけ普通の生活ができないのか、昼間はウインドウショッピングをして、夜はパーティーに行く、そんな普通の生活がしたい。
そう思った彼女はお城を抜け出し、夜の街に逃げ出します。

彼女は街に出て、まず最初に髪を切ります。これには彼女のおてんば性格表現と同時に、王女であることを辞めたというダブルミーニングがあります。

そんな逃避行の中で、グレゴリーペッグ演じる新聞記者のジョーと出会います。

ジョーは彼女がアン王女だと気づき、一大スクープにできると確信します。
ジョーは自分の職業を隠しながら、友人であり仕事仲間のカメラマン、アービングとアン王女のスキャンダル写真を隠し撮り続けます。

グレゴリー・ペック演じる新聞記者のジョー

ローマの様々な名所を訪ね、王女のままではできなかったたくさんの事をアンは経験します。
バイクに乗る事だったり、カフェでコーヒーを飲む事、ダンスパーティーに行く事など単純に庶民の生活に根付いたことはもちろんこれまで体験できなかった事ですが、外の世界を見て初めて彼女が王女として全うすべき事、王女にしかできないことにある時ふとアンは気づきます。
ここにこの映画のサブテキストが見えてきます。
サブテキストとは要は映画で語られるお話の裏に込められたストーリーみたいなものですね。
この映画では身分の違う二人の男女の物語というとても普遍的なストーリーのその裏に、一人の人間が自分にしかできない事を見つける、というストーリーが込められています。

自分が普段見ることができなかった外の世界、それはもちろんローマの街の風景でもあるんですが、同時にそれはアンがお城の中では決して知ることのできなかった、この世界の現実でもあるんですね。この映画が作られたのは1953年です、第二次世界大戦が終わってから8年しか経っていない時代です。今まで直接的に感じられなかった現実を目にしてアンはふと

わたし、帰らないといけない

と気づきます

言葉にしない、だからこそ伝わる、だからこそ残り続ける

しかしその時、アンとジョーの間には恋が生まれていました。
それでもアンは自分の帰るべき場所に帰る決断をします。
もう、ここが本当に泣けるんです、二人とも本当は行きたくないし、行かせたくないんです。
それでも二人は別れます。

しかしこの映画のいいところはこの別れにあると思うのです。
この別れを二人は身分の差とか、そんなふうには全く語りません、二人とも、この選択が正しかったというような、そんな表情を最後には見せてくれます。
そこがとても清々しくて、逆になんだかまた切ない気持ちにもまります。
なんだかこの映画にのなかにずっと居たいけれど、投げ出されてしまうような、そんな気分になってしまうのです。

急にエモい感じになってしまいましたが、要はアンにとってローマで過ごした1日は、映画の中では王女様の楽しい非日常の1日のように描かれて居ましたが、彼女にとっては成長の1日だったのです。


その証拠に彼女は城に帰り、ミルクとクッキーをキッパリ断り、ネグリジェを着て眠ります。
ここではミルクとクッキーが子供と大人のボーダーラインとして使われています。

そして成長したのはアンだけではありませんでした。
王女のスキャンダル写真をたくさん撮ったジョーでしたが、彼はそれを特ダネに使いませんでした。ジョーも彼女と過ごした1日で彼女の決意を感じ、自分も変わる事を決意しました。翌日の王女の記者会見でジョーは堂々とアンの前に姿を現し、その写真をローマの記念にとアンに返しました。

アンはその記者会見でヨーロッパ統合に関して聞かれると

どうなるかは分かりませんが、私は友情を信じます

そう答えました。
これには実際に当時囁かれていたユーロ統合へのダルトン・トランボの希望的なメッセージと、アンのジョーに対する気持ちがダブルミーニングとして込められています。
先述のようにこの映画が作られたのは1953年、第二次世界大戦終結からまだ8年しかたっていません。
その状況下で敗戦国のユーロ統合を支援するようなセリフをハリウッド映画にあてるのはきっと相当な覚悟がいる事だったのではないかと思います。
こういったところにダルトン・トランボの脚本らしさが見え隠れしますね。

そして個人的にはアンの言った

私はこの街の思い出を、いつまでも懐かしむでしょう

という言葉がとても胸に刺さりました。
本当に単純に、私もこの映画をいつまでも懐かしむような、そんな気持ちになったからです。
アンとジョーの本当に切ないながらも前向きな別れ方、自分だったら決して下せないなという決断がそんな気持ちにさせるのかもしれません。すごい悲しいんだけどなぜかその先に光が見える、うまく言えないんですがそんな感じ、、、

ずっと、この映画の、この暖かさに包まれていたい!!
でも二人は、ちゃんとお別れしたんだから、自分もそうしないと!!
自分も自分にしかできない事を見つけないとだめなんだ!!

と、謎のエモモードに入っていました。

でも、こうやって一つの映画が、映画の中だけで終わらずに、その先の事を考えたくなったり、登場人物が自分の中で生きていると感じる映画が時々あります。

そういう映画は自分にとって大事な映画になります。
きっとそれらは多くを語りすぎないところが良いんだなと思います。
セリフやシーンで全てを語り切らない、ほんの些細な表情や、演出で言わんとする事を伝える、だからアイマイモコだけど心地いい感覚が残るのではないかと思います。

この映画も最後の二人の微笑みが本当に素晴らしいです。
見つめ合う絵というのはどうしても横からしかとれないものですが、この映画のラストシーンでは本当に二人が見つめあっているのが感覚的にわかるのです。これは主演オードリー・ヘプバーン、グレゴリー・ペックという二人の役者が作り出すワンダーではないかなと思います。

無名の新人女優から伝説の女優へ

オードリー・ヘプバーンはこの映画が公開される当時無名の新人女優でした。
しかしこの映画でアカデミー賞主演女優賞を受賞し、一気に時代を代表する伝説の女優となりました。

考えてみると映画の始まり、足をむず痒そうにするあのあどけなさの残る王女が、愛と友情を語る大人の王女に変身を遂げるそのストーリーが、そのまま無名の新人女優から伝説の女優になる彼女のために書かれたお話のようにも感じられます。

この映画は何と言っても彼女の少女のような笑顔と凛とした優しい笑顔が輝く、彼女のためにある映画のように思います。
それだけこの映画のオードリー・ヘプバーンは素晴らしいです。

共演のグレゴリー・ペックも

タイトルと一緒に彼女の名前を!!

と推していたらしいです。
その姿を目にし、声を聞くだけで、自分の中の懐かしき思い出が浮かんでくるような、そんな記憶の扉をノックしてくれる素敵な演技を見せてくれました。

とにかく素晴らしい映画だし、昔の映画だからといって全く敬遠せずに見られる普遍性や、裏に込められたメッセージもある。ラブストーリーとしても、一人の人間の成長としても見られるそんな色んな側面を持った映画だと思います。

是非みてみてください!

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では!

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