「よみがえる変態」著:星野源 ものづくり地獄でボロボロになる

きっかけは忘れたけれど去年の後半くらいからいろんな人のエッセイを読み始めた。
元々雑誌のコラム欄とかが好きだったから正直何をしているかもよくわからない人のエッセイもそれなりに楽しんで読むことができた。
そして、あまりにも稚拙で恥ずかしいのだが
「エッセイって面白い、エッセイやばい、エッセイ書いてみたい」
という小学生でも驚くほど短絡的な思考が自分の頭を覆い、そのころから漠然と仕事辞めて、なんか物を書く仕事をしてみたいなぁ〜なんて思い始めた。
かくして何かを始めるのは異常に腰が重い自分だが、辞めるのに関しては人一倍腰が軽い特性を生かし、二月の最終営業日である昨日仕事を辞めるに至った。
(退職前夜のエモめの記事もあるのでお時間ある時に是非)

さぁ、そんなわけで本当に自由の身になってしまった自分だけれど、本当に、びっくりするくらい食べていくあてがない。
物書きになりたいというのは希望だけで、載せてもらえるメディアもそのツテもない。やばい。
今こうして自分発信のブログでやばいという焦燥感をなんとか紛らわせているけれど、前職がデザイナーといっても単なる会社員だったのでこれといって物書きに有利に働くバックグラウンドもない。
思いつく限りのツテ作りといったらそこらへんのお金持ちのマダムにを気持ちよくしたり、あるいはお金持ちの男色家に痛い思いをさせられるくらいのものだ。
ちょっとそこまでいくにはまだ早いし、特にビジュアルに自信があるわけでもない。
いつか恥も何もかも捨ててそこいらの人にシンプルにお金くださいと懇願しているかもしれない。

エッセイを書いてみたいなんて思ってはいるけども、この世の中に純然たるエッセイストという存在がいるだろうか、要はエッセイを書いただけで話題になり、エッセイを書くだけで食べていけてる、そんな存在が居るのだろうかという話だ。
大抵エッセイというものは、既に他の分野で活躍している人の知られざる日常を垣間見たり、才能ある人の意外な生活を描くことで人々がそれを知りたい、読みたい、と思うものだ。
そんなところで「31歳、元デザイナーの日常」なんて本が書店に並んでいても、仮に平積みされていても誰も手には取らないだろう。
まぁ逆に、これまじ誰なの?という興味が勝る可能性も無いわけではないが、まず書店に並ぶ前に出版社に掛け合った時点で門前払いだろう。

結局は何かしらで一旗揚げてからこそのエッセイみたいなものがあるんだろうなぁと思いながら、自分もまずは何でもいいから書かないと始まらないという気持ちでとりあえずは映画や、本について書いている。悲しいほどに読んでいる人は少ないけれど、きっと物書きって「書かないと始まらない」が極論なのだと思う。

そんな事を考えながら、常に何かしら書くネタがを摂取しないとという感じで、だいぶ前に買ったけれど存在すら忘れていた星野源のエッセイ「よみがえる変態」を読んだ。

先に率直な感想を述べると
嫉妬、だ。
むしろ嫉妬するにもおこがましいくらいだ。
なので今日はそんな「よみがえる変態」について書きたいと思う。

文庫版を書いました。
単行本は「蘇える変態」として2014年発売
文庫本「よみがえる変態」は2019年発売

実は、自分は星野源に会ったことがある。
自分が通っていた大学の学園祭に星野源が在籍していた(今は活動しているかわからない)SAKEROCKというバンドがライブをしに来ていた。
くまなく彼の活動をチェックしていた人から見たら既にあの時からかなり名が知れていた、なんて言われるかもしれないが、我が校の文化祭は基本的には今の星野源級のビッグスターが来ることはない。だから自分も今その時を振り返ると「星野源、会ったことあるよ。売れる前だけどね」と、どうしてもカッコ付きに話してしまう。
加えて会ったというよりは、見た、が正しい。直接会話したわけでもなければ最も近づいた瞬間でさえ多分20mくらいだろう。でもそれが会ったと言い切れないわけではない。
きっと彼の視界の端に自分を見た可能性もあるし、コンマ何秒かは目だって合っていたかもしれない。
はい、そんなよた話は置いておいて、そのライブの話をしたい。
いや、でも、できない。なぜかというと正直憶えていないのだ。
我が校の学園祭は中の人として参加すると基本的には夜は所属するサークルのテントに夜通し泊まり込み、酒を浴びている。
昼間から夕方、というか会期中のほぼ全時間を酩酊状態で過ごしているのでライブの誰々の演奏がかっこよかったなんて記憶は全く無い。
そんなわけでまだ売れる前の星野源と会ったことは会ったが、記憶は全く無いのだ。本当に愚かすぎる。

だから実はあのバンドのギター、ボーカリストが星野源という名前だったなんてことも全く知らなかったし、後に本格的にブレイクした時だって、まさかあのときあの学園祭に来た人だなんて気付くのはブレイクから一年近く過ぎてからのことだった。

でも今や、星野源はスター中のスターだ。神は二物を与えずなんて格言に、その神すら「与えちゃったわぁ」と後悔しそうなくらいに彼はマルチに活躍している。
ミュージシャンとしては言わずもがな、俳優でも社会現象とも言われるようなドラマに主演し、おまけに今回書かせてもらっている「よみがえる変態」のような素晴らしい文章も書いてしまう。
なんなんだ一体、畜生が!!と嫉妬以外に感情が湧いてこない。
嫉妬を超えて嫌いにすらなりそうだ。

でも、今ここでさらりと星野源はあらゆる才能に恵まれていてふざけんじゃねぇ、みたいなことを書いたが、「よみがえる変態」を読んでみるとそのタイトルからは考えられないくらいに星野源というクリエイターが苦しみ、もがいていたのかを知ってしまうことになる。

「よみがえる変態」は雑誌「GINZA」で連載していたコラムと単行本の際に書き下ろした文章を一冊にまとめたエッセイ集だ。
加えて、これが雑誌に載ったのが2011~2013年なので実は彼が本格的にブレイクする前ということになる。
個人的にやっぱり本格ブレイクはテレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(2016年放送)なので(異論はかなりありそうだけれど)まだまだ、人気者、マルチタレント、才人の名声を得る前の星野源のエッセイだ。
ざっくりと感想を言ってしまうと、めちゃくちゃに面白い。歌もよくて、演技もできて、文章も面白いから根深い嫉妬が生まれる。
彼のマルチな活動を表すかのように心打たれる部分もありながら、クスッと笑ってしまう一言が絶妙なタイミングで挟まれて、読んでいるこちらの感情が上下左右斜めに思わぬ方向に揺さぶられる。
笑っていると思ったら悲しくなり、泣けるなこれと思っていたら吹き出してしまったり、やっぱり真面目な事考えてるんだなと思ったらタイトルどおりエロい一言で煙に巻かれたりしてしまう。
そしてクリエイターとしていかに細部にまでこだわり抜くか、納得のいくまでやり抜くかという点でも非常に背筋を伸ばされる。

中でもカバーミュージックに静かなる反抗が見られる「頑張れ」というエピソードには背筋が90度にピーンッ!!と固定される。
ミュージシャンとしての星野源は、正直そこまで知らない。
ただ彼のバックグラウンドに横たわる膨大な音楽の知識と愛はインタビューなど見聞きしてきた。
彼の音楽は白の影響も黒の影響も、そして黄色の影響も多分に受けている、そして何色とも言い切れない様々な色の音楽にも。
簡単にいうとブラックミュージック、ロック、民族的な音楽、そして彼の主戦場のJ-POP、それらの音楽のエッセンスを多分に含みながらも、どれにも属さないというのが彼の音楽だと思う。
だから、様々な色や匂いがありながらその実なんとも形容しがたい音像が見えるのだ。
リズムに載せるリリックもさりげなく韻を踏んで聞かせどろこをナビゲートしてくれる。

過去の音楽を噛み砕いて新しい音楽に昇華するHIP HOPに代表されるブラックミュージック、初期衝動から生まれる新鮮さを根底にしながらもオルタナティブを志向するロックミュージック、根源的な音楽の心地よさをキープしつつ新しいものを作る精神が共通するそれらの音楽への愛を基に自らの楽曲を作る星野源。
だから誰かの音楽のようであって、やっぱり星野源だけの音楽。って感じがする。
他の音楽にすごい影響をうけているのがすごくよくわかるけど、同時にそれを自分だけの表現にちゃんと昇華している。
特に「Pop Virus」なんかは個人的に強くそんな事を感じる。

星野源 – Pop Virus (Official Video)


そんな当人の、人の曲をそのまま歌いJAZZ風、ボサノヴァ風にアレンジするカバーミュージックに対する静かな批判はもう激しく納得せざるを得ない。
表現者たるもの、新しくて刺激的なものに突き進まなければいけない。そしてそこにどうしても混入してしまう、溢れ出てしまう誰かからの影響や癖が、いつのまにかその人の作家性になるのかもしれない。

そしてそれ以外にも、読んでていると思わず涙してしまう親族の死の話や、物を創造する時の苦しみ、葛藤が、人気者で常ににこやかな彼からは想像もできないほどに生々しく綴られているものもある。
そりゃここまで様々な人を惹きつけるものを世に出しているんだから、苦しみもプレッシャーも普通じゃないよなと当たり前のことに気づかされる。
と、思うと抜群のユーモアといきなりぶちこまれるエロで深く考えてしまった自分が恥ずかしくもなる。本当に文章のスタイルの幅の広さに驚かされてしまうものばかりだ。

物作りとしての苦労や、闘病生活の話なんかもあるのに、本全体としてはそこに笑いやエロが巧妙に入り混じり過ぎて、正直読んだ後どんな気持ちになったらいいかわからない。
明らかに今まで読んだ読み物とは異次元の読後感を味わうことになる。
でもそれってきっと、星野源にしか書けない文章を彼が書いたってことだろう。
泣ける!!とか、熱くなる!!とかそいういう一方向のものも好きだけれど
いや、どんな気持ちになればいいんだよ
というものだって最高だ。わけわかんなすぎて逆に憧れすら感じる。

先にも書いた通り悲しくも、明るくもある本当に不思議なエッセイだが、やっぱりこの本には星野源の「地獄」が描かれているなと思う。
それはもちろん彼の大病にかかった「闘病の地獄」と自分の納得するものを作り出す時の「ものづくり地獄」の二方面。
特に「ものづくり地獄」の方は、こんなこと言うのは本当におこがましいけれど、星野源の「ものづくり地獄」を6億分の一くらいしかまだ味わっていないけれど、それでもやっぱり共感してしまう。というか共感させていただくことにする。
ミュージシャンなんて売れると、売れているのが当たり前のように見える。
あ、この曲ちょっと適当に作ったんだな、とか、適当に作ってもお金になるじゃん。なんて思ったりする。そんでそれは俳優さんとかもにも思う。
でも、当たり前だけれど、やっぱり皆死ぬほど苦労して、悩んで、「ものづくり地獄」に入ってボロボロになって生還してきた地獄経験者なのだ。
発狂したり、時にそれを我慢して笑顔を作ったり、我慢できなくて誰かにきつく当たったり、酒に頼ったり、泣いたり、変な薬を飲んでしまたったりする。それでもなんとかかんとかして皆その地獄から最高にクリエイティブなお宝を抱えて帰ってくる。
一流タレントがいかにも苦労してなんかいませんとお澄まししたり、ファンがいるから頑張れました、なんて綺麗事で片付けず、星野源は「よみがえる変態」でしっかり吐き出してくれた。
こんな色んなことをこなす才人の愚痴みたいな、甘えみたいな、弱さみたいなものを、すごい本当に飾らずに書いてくれている。

こういうものを読んでしまうといよいよ「エッセイ書いてみたぁい」なんてただの欲求だけ言っているのが恥ずかしくなってくる。恥ずかしい、誰かに殴ってほしい。
しかし耳(目)が痛くも、誠にありがたい一冊だ。

「エッセイ書いてみたぁい」なんて思って検索窓に
エッセイスト なりかた
というこれまた小学生のようなサーチをかけてみると、案外有名人、芸能人じゃなくてもエッセイストにはなれます、なんて記事を見かける。
なんなら有名人、芸能人じゃないとエッセイストになれないなんておかしい!!なんて記事もある。

それを読んでインスタントな希望を持ったりするけれど、でもやっぱりエッセイというものは何かの付随物だと思う。何かで頑張った人や、有名になった人が書いてこそ面白いものやパワフルなものが生まれるのだと思う。
日々の生活をただ書くだけではやっぱり誰も興味をもってくれないだろう。何百日、何千日書いたってきっとそれは変わらない。

だったらこうなりゃ「ものづくり地獄」だろうがなんだろうが地獄に喜んで飛び込むしかない。
ボロボロになって、その中で見つけた光り輝く何かを、あるいは血まみれの何かを面白おかしく書いてやろうじゃないか。
ボロボロの傷だらけの人間が書くものこそ、きっと誰かを惹きつけるのだ。
星野源の「よみがえる変態」を読んでそんなことを思った。

はい、そんな感じで星野源の「よみがえる変態」についてでした。
一応このブログも10分、20分でサラっと書いているわけじゃない。
恥ずかしいけれどだいたいは結構な時間がかかる。こんな内容でも。
かかる時間が多ければ良いなんてことはないんだけれど、やっぱりまがいなりにも苦しんで書いている部分はある。つまりは「ものづくり地獄」のほんの入り口近くくらいまでは行っているつもりではいるのだ。
そりゃこんなこと書いて星野源さんすみませんという気持ちがめちゃくちゃするけれど、まだまだ地獄の入り口付近なわけだから、もっともっと深層に入り込まなければいけない。
熱くて、苦しくて、息もできない場所まで入り込んで、えんま様のお許しだかお宝だかなんだかを目にしなければいけない。
とにかく自分も書き続けることが大事だと思うことにして、今後も頑張って地獄を探求していきたい。芸能人でも有名人でもないけれどエッセイみたいなものも書いていこう。
何百日、何千日だとダメかもしれないが、何万日くらい描き続ければ、もうそりゃボロボロになっているだろう。もちろん長さだけが重要なわけじゃないんだけれど。

地獄の門すら、まだ程遠い。

では!!

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